やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

国公立入試初日に考える進路指導の極意 〜カウンセリング・マインドも一緒に〜

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ついに、高3の生徒たちが国公立入試を迎えました。

朝から部活動指導をしながらそわそわしましたが、ここまで頑張ってきた、生徒たちの健闘を祈るばかりです。

後輩たちも、「あああ〜〜来年は〜〜〜自分たち〜〜〜〜〜」と声にならない叫びをあげながら練習していました(笑)

 

◯進路指導を勉強しなければならない

ベネッセのVIEW21や、リクルートのキャリアガイダンスなど、教育研究所が出している民間の月刊誌も、今月は進路指導をテーマに掲げています。

例えば今月のキャリアガイダンスはこんな感じ。両者とも、過去のバックナンバーを読むことが出来ます(相当ありがたい)

souken.shingakunet.com

とは言え、紋切り型の指導では当然いけません。

未だに「学歴主義」という名の「偏差値主義」がまかり通っているのが教育界です。

というか、大人以上に,生徒たちが意識しています。

そんな「主義」に扇動されやすい生徒たちの価値観に揺さぶりをかけるのが教員の仕事でもあるのですが、

その揺さぶりは常に生徒本人のためでなければなりません。

当然ですが、特定の利益のためになってはいけません。

その意味でも、やはり非常に甲斐ある職業だとは思っています。

(と言いながら今部活でクッタクタで寝そう)

 

◯ベテランが教えてくれた極意

高校生の進路指導に関しては、正しい努力の方向を示すことが重要な職業です。

もっと丁寧に言うと、

①生徒が行きたい方向性を引き出し、

②本人・保護者・学校ともにその方向性の共通認識をつくり、

③その方向性にしたがった目標(志望校・学部等)を立て、

④その実現に向けて正しい努力の方向を示すこと

が必要な職業です。

実は一番大切なのは、①〜④の全ての土台にある、

⑤絶えず励まし、慰める。

という、

受容と共感のカウンセリング・マインドの精神

かもしれません。生活指導の原点でもありますが、心理学の世界では超有名人のロジャーズの言葉です。(私はよく知らないのですがちょっと前に教わりました汗)

 

◯もう一度1つひとつ整理してみます。

①生徒が行きたい方向性を引き出す

担任として、教科担当として、部活動顧問として、学校内での連携をまず密にすることです。これは本当によくあるのですが、

生徒は部活動の休憩時間にぽろっと進路の本音が出たり、

掃除の時間に部活の悩みを吐露したりします。

つまり、こちらが知りたい情報を、こちらが知りたいシーンで言うとは限らないということです。目的的でない、と言ったら言い過ぎでしょうか。

だから、色々な視点から生徒1人に関わらねばなりません。これは時間のかかることですが、生徒が低学年の頃からこのことを教員は意識し、記録化しておく必要があります。

 

②本人・保護者・学校ともにその方向性の共通認識をつくる

保護者との連携が大事ですね〜〜〜。私は(迷惑かもしれませんが)ふとしたときに保護者に電話して、家での様子を聞いたりします。親子関係もさぐれます。

(進路の面談で、親子喧嘩が始まることを何度も目にしました。)

 

逆に、①・②ができれば、③・④の壁はかなり下がってくるはずです。

③その方向性にしたがった目標(志望校・学部等)を立て、

④その実現に向けて正しい努力の方向を示すこと

 

あ、でも、正しい努力の方向や仕方をアドバイスするとよく、

「先生は成功したからそんなこと言えるんでしょ」穿った発言をかましてくる生徒がいます。

そんなかわいい生徒には、いろいろな返答のパターンがありますが、例えばベートーベンの、この名言を。

Beethoven


「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している」

まずは自分が、努力できる大人であり続けたいと身が引きしまる国公立入試初日でした。

 

教員以外でも部活の指導・引率が可能に!?〜負担減につながるか〜

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今日も指導要領改訂案について昨日の続きを書こうと思っていましたが、その裏(?)で、指導要領異常に現場に改革の意識を与える話が進められていました!

 

◯教員以外でも引率可能に! 

まずはこちらの記事をご覧下さい。(端的にまとまっています!)

www.yomiuri.co.jp

どれだけ実効性をもって実現するかはさておき、

ひとまずこれを読んでの私の感想は、

「なんという朗報!!!」でした。

まだ何も動いていないのにぬか喜びですね(笑)

というのも、部活動の実態に(少しばかり)頭をもたげていたからです。

部活動の実態に関しては、過去も何度か記事にしていますが、少し検討の角度を変えたこちらの記事がよくアクセスを頂いています。(それ以外は当ブログの「部活動」カテゴリーの記事をご参照頂ければ幸いです。)

yacchaesensei.hatenablog.com

 

◯この議論で必ず出される「批判」

一言で言うと、先の読売新聞の記事中にあったこの部分でしょう。

中学、高校の部活動では、現在も外部指導者が導入されているが、責任や待遇などが曖昧なため、顧問の教員の補佐役にとどまっていた。

 

実は、今も「外部指導者」は存在しますし、存在してよいのです。 

しかしながら、

①これまで「外部指導者」に関する法令上の規定がなかったこと

②それゆえ、立場が曖昧であること

③結果として(事故等のマイナス面の)最終的な責任を負うことが出来ず、結局「教員」が責任を負うということ。

という状況が今も続いています。

この状況に風穴をあける意味でも、4月からの変更はもっと取り上げられてほしいと思ってしまいます!

 

◯でも、誰が採用し、誰が給与を払うのだろう。

ここで公立と私立の差が出ると思っています。

きっとこの変更で、公立学校の部活動は運営の見直しが行われたり、この話が議論を呼ぶでしょう。もっというと、上が動けば、現場も動かざるをえません

採用は自治体や教育委員会が管理して行い、給与も公務員と同様、税金から支払われるのであれば、個別の学校にリアルな痛み(人件費)は0に等しいはずです。

 

ところが、私立はどうでしょうか。

私立の教職員採用は、その私立学校に委ねられています。

当然、給与の支払いは、その私立学校法人が行うことになります。

しかし、現状の教員だけでなりたっている部活動のために、

わざわざ地域指導員を雇用する余裕はあるでしょうか?

教員以外ですでにコーチとして招聘している人間以外に、新たに採用するでしょうか?

そう考えると、私立学校は(残念ですが)この変更の影響をあまり受けないのではないか、と私立学校教員である私は感じています。

 

◯そもそも部活動は

あまりこれは大きな声で言いたくありませんが、部活動は

あくまで「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」(学習指導要領)ものとして、教育課程外の扱い

であるという原点は忘れてはなりません。

もちろん、部活動自体には大きな教育的意義があり、子どもからも、保護者からも、そして社会からも部活動が望まれて現在に至っていまず。

ですので、杓子定規に原点回帰せよ!というつもりはありません。

ただ、この部活動が「ブラック教員」と言われる悲惨な実態を生み出していることも事実なのです。だから、手を入れるべきであることは間違いありません。

 

◯おわりに

①今日たまたま授業で「労働」を扱ったとき、生徒たちから

「教員だけは絶対になりたくない、先生たちをみてると忙しそうだし、大変そう。休みも少ないし、自分はなれないと思う」と言われたのは切ないですね。

一生をかけるに値する仕事であると感じているのに、否定的なイメージからスタートせねばならない職業だと生徒に感じさせたくはありません。

 

②ベネッセのこちらの記事はもう少し掘り下げて書かれていました。

benesse.jp

中学校の学習指導要領改訂案で気になったこと5つをまとめてみた(総則編)

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私が気になったポイントを5点まとめてみます。

①カリキュラム・マネジメントできない学校はまずいよ!

ついに!というのが私の第一印象です。といっても、いったいカリキュラム・マネジメントとは何なのか。。あやしいカタカナです。そこで、3段階に分けてみてみましょう。

まずは、文科省による「添削しろ」と言われたら即「一文が長すぎる」と赤をいれそうな改定案をご覧下さい。

各学校においては、生徒や学校及び地域の実態を適切に把握し、教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科横断的な視点で組み立てていくこと、教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと、教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して、教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育の活動の質の向上を図っていくこと(以下、「カリキュラム・マネジメント」という。)に努めるものとする。(第1章総則 第1の4。太字は筆者。)

ここでそっと画面を閉じそうな私でした。が、

 

次にカリキュラム・マネジメントをもう少し端的に示しているのが新潟県教育センターの文章をみてみましょう。

「各学校が設定する教育目標を実現するために、学習指導要領等に基づきカリキュラムを編成し、それを実施・評価し改善していくこと」

だとされています。

 

そして最後に、私の解釈なので誤っていたらご指摘頂けるとありがたいのですが、もう少し噛み砕いてみると、

①各学校が目標を定める(これは普通なら今までも行われてきた)

②目標実現のために指導要領を踏まえてカリキュラムをつくる(これも普通なら今までやってきている)

③カリキュラムに基づいて教育を行う(これも従来通り)

④カリキュラムの評価・改善をすること(!)

がカリキュラム・マネジメントの要素であり、最後の「評価・改善」がカギだと考えています。

つまり、学校レベルでカリキュラムを毎年評価、改善してますか?

それを、教科横断的にやっていますか?というのが文科省のメッセージです。

授業ベース、単元ベースの改善ではなく、カリキュラムベースで改善を行っていくことが求められているということです。まさに、「学びの設計」の視点です。 

これからの教員は、現場にあわせたカリキュラム・マネジメントができないと、映像授業やAIで駆逐されていくでしょう。危機感をもたねばなりません。

 ※こちらの記事でも「学びの設計」について言及し、かなりのアクセスを頂戴しました。

yacchaesensei.hatenablog.com

 

 

②「多様な人々との協同」できる学びをつくって!

「個性を生かす教育の充実」から

「個性を生かし多様な人々との協働を促す教育の充実」(第1章総則 1の1)

へと太線部が書き加えられました。

当然、授業の中で「恊働」の要素を形だけではなく、設けていく必要があります。

他の箇所でも「主体的・対話的」の文言も、何度か新たに登場していますね。

※①の文言にもありましたが、「教科横断的な視点」で「恊働」を促す教育活動を捉えると、少し選択肢の幅が広がるのかもしれません。(もちろん教科内だけでも恊働は促せる)

 

 

③一人ひとり、一つひとつ。の連呼!

「生徒や地域の現状や課題を捉え、家庭や地域社会と協力して」(前文)

「生徒の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を十分考慮して」(第1章総則 第1の1)

 「各学校においては、生徒や学校及び地域の実態を適切に把握し」(第1章総則 第1の4)

 以下省略します。当たり前といえば当たり前ですし、時代の要請もあれど、やっぱり教育の本質的な要素だと思います。じゃないとこんなに連呼しない。

 

 

④なんとなく一貫校にしてもダメだよ!

第1章総則 の4に新たに「学校段階間の接続」が盛り込まれました。

要は、小中一貫校・中高一貫校は、きちんと入口・出口につながるようにしてね!というメッセージです。

現在一貫校に勤務している筆者としては、現実的な問題なのですが、

最近ニーズの増えている小中一貫・中高一貫の学校も、「生徒が集まるから」という理由ではなく、明確な目標の設定をしなさいよ!という匂いがします

(これは私の置かれている環境が、私にそう読ませているだけかもしれません)

 

⑤カウンセリング・キャリア教育も大事だよ!

もう、盛りだくさんです(笑)

集団指導のガイダンスも必要、一人ひとりのカウンセリングも必要。

キャリア教育も同様にガイダンスとカウンセリングが必要。

同意はしますが、すべての学校で実現可能かと言うと、難しいと思わざるを得ません。

ただ、1つ感じるのは、

「全ての生徒が高校・大学に進学する必要はない」というのが文科省の今後の方針だと思います。だから、キャリア教育をしっかりして、高専のような専門学校に通う道も模索しましょうね、という布石のような気がします。

  

◯おわりに

総則編だけで長くなってしまいました。

社会科の教科編、部活動やなどの特別活動編・・・あと2回は書きたい。。。

なぜ学校に行くのか?に一言で答えるなら‥?

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2月となれば、学年末に向けて、1年間の総仕上げです。

携わっている高校生のプロジェクト学習も総仕上げです。

(今帰路ですが最高にワクワクしていて疲れが週後半にどっとくること間違いなし)

 

◯成長の条件とは?

さて、タイトルの問いに答えるために、「成長」の話をさせてください。

日々生徒の成長のために、様々な働きかけをしています。

 

いろいろな働きかけをすると、成長する生徒には共通する「ある条件」があります。

今回は、人格形成における成長というより、主に「学習面」での成長についてです。

この「ある条件」は大人も共通しているものです。

 

それは、 

一言で言えば、「プライドを捨てられるか」です。

「プライド 成長」で検索するとこんな診断がでてきました(笑)

あなたの成長を妨げるものは? プライド診断|「マイナビウーマン」

 

「新しいもの・こと、に対して自分を開き、

できなかったり揺らいだりする自分をも認め、

新たな自分になってやろうと思えるか」です。

 

そのためには、

できないことを怖がらないこと。

新たな努力の方法を試すこと。

これが必要です。

 

自我がはっきりと自覚できる大人であれば、このプライドを捨て、新たな努力の方法を試すことはある程度思考実験的にできるかもしれませんが、(一部の大人は除く)

身体的にも、精神的にも成長途上の生徒たちには、幾分難しかったりします。

プライドを捨てる、ためには「自己肯定感」が必要だからです。

 

ただこれは、大人にも言えることですよね。

「できる」大人は、(変な)プライドがありません

ビジネスでも、目標に対してあらゆる手段を試してみる。

でも機械的ではなく、そこには熱がある。自己肯定感はあるのです。

そして最後に、結果を残す。出せなくても、次に繋げる。

そんな大人が「できる」大人だと私は思っています。

 

◯タイトルの問いに答えてみる。

なぜ学校に行くのか?

その答えは、

学校は「できない」ことを「できる」ようにする場だから。

というのが、問いに対する一つの有力な答えではないでしょうか。

もちろん、学校に行く意味は様々な観点から検討できます。

それでも、様々な観点から検討した「学校に行く意味」を包括する答えが、この答えであるような気がします。

 

逆説的ですが、家庭でそれが可能であるならば、学校に行く必要はないのかもしれません。

例えばアメリカでは、ホームスクーリングが公的に認められていますもんね。

 

 話を戻して、少なくとも日本の学校では、

「できない」けれど、「できる」ようになることを信じて、

一人ひとりの(発達)段階に応じて、授業に代表される教育活動を構成します。

そこには、変なプライドは無用です。

極論すれば、できなくたっていいのかもしれません。

できるようになるために努力すること、他者との営みの中で自分と向き合うこと。大人が付かず離れず見守り続けること。そうして育む自己肯定感です。

 

◯おわりに

①当然ですが、「できる/できない」だけを価値尺度にしてはいけません。

また、一人ひとりの「自己肯定感」と「できる」のためには、様々な配慮が必要です。

 

②私も変なプライドを捨てて、毎日簡単でもいいからその日の学びを記事にすればよかったんですね( ̄▽ ̄)

どんな感情も「すっと抑えられる」相談の乗り方とは?〜解決策を考えてしまうあなたに〜

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職業柄、いろいろな相談にのります。

この時期であれば、中学生は生活(人間関係・部活動・来年度のクラスetc)のこと、高校生であれば、特に高3のセンター試験後の受験校選定(を余儀なくされた生徒)の相談が増えてきます。

また、家庭との連携もあるため、家庭の事情による相談もイレギュラーで舞い込みます。

 

◯やってしまいがちな失敗

私なんかは本当によくやってしまうのですが、

相手の相談内容から、ついつい

「どうすれば現状をよりよくできるか」という改善策・解決策ばかり考えてしまいます。

特に、思春期の女子の相談にこれをやってしまうと、次から相談にこなくなりますね汗

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なぜ相談にこなくなるかというと、きっと「なぜ」を連発して相手を追い込んでいるような気持ちにさせてしまうから。

誰かが相談(っぽい)話をしてきたときに、「なぜ」「どうして」という言葉をよく使っていませんか…?

往々にして、相手が求めているのは、そういうことではありません。

(そういうことを求めている場合は、きっと「アドバイスください」とか「なんとかしたいんです」と言ってくるでしょう)

 

◯特に感情的な相談の場合に使える方法

ズバリ結論を言いますが、

相手より高まること。

これにつきます。

もう少し言葉を補足すると、

相手の持っている(負の)気持ちに共感し、

(相手が表現してきた気持ち以上に)その感情を自分も表現してみるのです。 

 

例えば、上司の対応にいらだっている同僚がその愚痴をこぼしたor相談にきたとしましょう。あなたなら、このセリフのあと、何と返しますか?

 

同僚「いや〜ホントに勘弁してほしいよ!」

自分「え、どうしたの?」

同僚「実はさ、云々かんぬん云々かんぬんでさ、本当にむかついちゃったよ!あり得ないよね!」

・・・

 

最近、「これは使えるな」と思っている私の返し方は、

自分「いや〜それはむかつくね。だって、云々かんぬん云々かんぬんだったんでしょ?いや、こっちもなんかムカついてきたわ!」

 

というような感じです(笑)

前半で、「おうむ返し」して、

後半で、「相手より感情移入」です。

そうすると、相手は、「わかってくれた」+「なんか自分より移入してくれてる、気持ちが落ち着いてきたかも・・・」となるんです。不思議なことに。

 

人間って、自分より感情を表面化させている人をみると、冷めたりしますよね。

満員電車で怒鳴っている人をみると、ちょっとイヤだなって思っていた満員電車の状況も、「ま、我慢できるか」ってなりませんか?

 

相手より高まる、おすすめです。

担任として生徒に嫌われることよりつらいこと

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前回の記事で、教育困難校の現場で奮闘される先生の声を紹介しました。

コメント欄には、「異動先は基本は選べないですからね」という現役の先生からのコメントも。

yacchaesensei.hatenablog.com

これは記事中で言及できなかった公立と私立の大きな違いでした。ありがとうございました。

つまり、誤解を恐れずに言えば、私立は「生徒の学力レベル」や「教育理念」などを選ぶことが出来る、ということ。(もちろんその分、専任の求人が少なく、採用されるまで大変ですが)公立はその選択権が教員にありません

民間企業とも、私立学校とも、これは大きく異なります。

例えば、就活。同じ「商社」でも社風が違い、自分の行きたい「商社」を就活では選ぶことが出来るのに、「公立学校」は選ぶことが出来ません。

言うなれば、「商社だったら、どこでも文句言わずにやってくれるってことだよね?」という状態でしょうか。(言い過ぎ?)

 

それに加えて、部活動顧問が乗っかってくる。

さらに、本業の教科教育でも、紹介した先生のダイアリーのような辛い状態であれば、これは相当にしんどいことが想像頂けるでしょう。

 

◯生徒に嫌われること

そんな状況で、さらなるストレスとなるのが、生徒との人間関係のこじれ。

その結果、生徒が自ら命を絶ってしまう、こともあるのはご承知の通りです。

生徒が自死を選ぶことは、何があっても防がねばならない、ことは言うまでもありません。教員は生徒に信頼される存在となれるよう努力しなければいけない。

一方で、生徒指導の過程で、生徒が教員を嫌いになることは往々にしてあり得ます。(もちろん教員側に明らかな「非」がある場合は別です!)

特に、「好かれよう」と思っていたら、教員という仕事は厳しい

目的のためには、自分から「必要悪」的な存在にならねばならないこともあります。

また、教員側の意図とはまるで別の所で、生徒からわけもわからず嫌われたり(逆もあるのだが)、挨拶しても無視されたり、そんな理不尽はつきものです。

したがって、「生徒に嫌われること」に汲々としていてはいけないと感じています。

それよりもつらいことがあるのです。

 

◯それよりもつらいこと

ずばり、保護者が子どもと同じ見方をして、教員を評価することです。

これはしんどい。特に、思春期の生徒を相手にしているときはしんどいですね。同僚の後輩が今非常に苦労していますが、私にもよいアドバイスができません。

 

まだまだ自我が発達していないと、他者への印象論で話が膨らみ、そこに同調しなければ自分が仲間外れにされるという恐れを強く抱きます(嗚呼、日本社会…)

つまり、感情の共有によって(思春期の)人間関係はつながりを保ちます

(それをつながりと呼ばないんだ、という共通認識を持てるのは、一人一人の発達段階により異なるため、もう少し先の話)

 この「感情の共有」の対象が、教員になることがあります。

それ自体を教員が理屈で否定しかかってしまうと、これまた話がこじれる。

だから、ある程度の思春期・反抗期の振る舞いは、自分(教員)にとって腹立たしいことだとしても、時間が経つのを待つことも多いのです。気にせず、見返りを求めない愛情を注ぐことが求められます。(理屈のない反抗に対しては、理屈で押してもぬかに釘どころか、自体を悪化させかねません)

 

それをよそに、保護者が教員に対して子どもと同じ見方をし、

「教員に否定的な言動をとること」(コレは仕方ないが)

「あらぬ疑いをかけられること」

「生徒(子供)のいうことを鵜呑みにしそのまま信じられること」

が続くと、厳しいですね。

担任と保護者の信頼関係が崩れると、子どもは担任を信用しなくなります。

大人Aが、別の大人Bを信頼していないと、子どもは大人Bを信頼しません。

 

私は親ではないので、分かりません。でも、親の影響というのはやはり大きいのです。

親が良き「教育の理解者」であってほしい、と願う前に、親と信頼関係を築く時間ややり方を勉強せねばならない、と感じた月曜日でした。