休みのない6月。目先のことで生徒も私も手一杯なのですが、某先生を見習って一日の考えたことも含めなるべく更新しておきます(三日坊主)。
期末試験をぼんやりと考えていて
定期試験はどうしても、いわゆる「知識・理解を問うような記号で答えられる問題」が多くなってしまいます。
それが一概に悪いわけではないのだけれど、今年度の評価に占める定期試験の割合として、定期試験の比率を下げようと思っています。
なぜそのように思っているか、恐縮ですが自分の過去記事を見返して自分の今思っている理由をまとめます。
理由①「AIも答えられること」を訊くことの必要性が薄い
試験を作成しているのだけれど、論理・統計・確率に落とし込めない問題をなるべく作りたい。と今まで以上に思って作問にとりかかる。
単なる一問一答、穴埋めや、キーワードを拾って答えを推測できるような問題は、AIの得意中の得意な問題だからだ(たとえAIが意味を理解していないとしても、「正解」は「正解」だ。)
新井先生の研究成果を踏まえると、「読解力とは何を指すか」という疑いは必要であるにしても、すでにAIはMARCHレベルの入試なら突破してしまう現実がある中で、生徒に短答式の問題で答えを聞くことの意味がどれだけあるんだろう、という気持ちに自分がなってしまっています。
もちろん、知識・技能は学力の3要素の第一段階にあるものなので、知らなくてもいい、わけではありませんが、それを大量に聞く試験が評価の大半を占めてしまえば、試験のせいで探究心のある生徒の意欲が、削がれてしまう。
そういう試験にはしたくない、という思いが高まっています。
理由②去年の授業アンケートの言葉が刺さる
もっとクラスの中での意見交換が多いと思っていましたが、暗記して、テストで点数を取るための授業という印象でした。 期待が大きかった為、他教科と同じような「暗記科目」感が残念でした。
かなり意見交換は活発にしていたと思うけれど、それでも評価がどうしても「暗記」になってしまったことは否定できません。
もっというと、日々の学びを見ていて、「この生徒のグループプロジェクトに対する貢献度は大きいな、一番いい評価をつけたいな」と思っていても、試験でずっこけてしまって結果的に5段階で「3」をつける、みたいなことをしたくない。
下の方の複雑なパフォーマンス課題で高いパフォーマンスを果たした生徒に素直にいい評価をつけたい。
おわりに
多分、多くの日本の先生もこういう風にしたいんじゃないかな、と勝手に思っています。でもそこに立ちはだかるのは採点という壁。
日本の学校の定期試験が、定期試験のための定期試験になっているのではないか?という疑問。
— やっちゃえ先生@学力の3要素 (@Yacchaee) 2018年6月11日
に対して、仮説となる理由は、
教員1人当たりの担当生徒数が多く、記述や論述などの採点に時間のかかる問題を出すことに躊躇されるから。
結構あると思うんだよな。
その意味ではやっぱり生産性をあげるって大切な視点ですね。
あとは、1人で40人×5クラスもつ、みたいな構造を脱却しましょう。生産性だけではおさまらない量の多さはどうしようもない。圧死しそうになる前に。
そもそも定期試験の重要性が大きすぎるよね。
他のパフォーマンス課題を適切に評価できているか。
“定期試験神話”を打破するためにこちらが仕掛けないと、生徒はこちらが思う以上に評価を気にするし、「テストで測れる学力が結局大事なんでしょ」と見透かしてくる。
評価したい生徒を、きちんと評価しよう。
テストで説明責任を果たした気になるのはやめよう。