やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

教育と管理って合性悪い・・・?

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夏休みが終わり、9月に入っても皆元気に学校に来てくれています。

 

他の先生方からも、

「先生のクラスは活発だし、やるときはやるって感じでいいね〜」

「元気な子が多いし、みんな表情が明るいよね〜」

という言葉を聞かせてもらったりします。

 

そういうことの積み重ねで、(実態はいろいろあれど、)

「うちのクラスはいいクラスだ」

と、なんとなく思っていたりしました。

 

でも、この「なんとなく」が危険ということを教えてくれたのが、先輩教員が研修で使っていたこの本。

その手抜きが荒れをまねく―落ち着いているときにしておく生徒指導

その手抜きが荒れをまねく―落ち着いているときにしておく生徒指導

 

 恥ずかしながら不学な私は吉田先生のことをこの本で知りました。

 

吉田先生のプロフィールをamazonから拝借すると、

吉田 順(よしだ・じゅん):1950年北海道別海町生まれ。横浜市で37年間公立小中学校に勤務。担任32年、生徒指導部長16年、学年主任13年兼任。2011年3月定年退職。平成元年より「生徒指導ネットワーク」を主宰。現在、「生徒指導コンサルタント」として全国の「荒れる学校」を訪問し指導方針づくりに参画。「非行・問題行動」「荒れる学校」「学級経営」「生徒指導」などのテーマで講演、著述、相談などの活動をしている。 

 

他にもいくつも著書があり、今回の本が久しぶりの新版だそうです。

 

◯目から鱗の「管理」

「管理」という言葉と教育を組み合わせると、どんな印象をもつでしょうか?

私は、どこかこう血の通っていない、物わかりの悪い、画一的なルールを押し付けるような学校現場のイメージをしてしまいます。

あるいは、「偏差値UP」など、ある目的のもと、生徒を自分たちの枠の中で教育するというような体制のイメージでしょうか。

 

いずれにせよ、管理という言葉にいいイメージをもっていませんでした。

 

ヨーロッパ(が全ていいわけではありませんが、)の学校現場の事例などを学ぶと、

学年が上の生徒が、年下の生徒たちの仲違いの仲裁に入る仕組みが有る、など

本当に生徒を信頼して学校という現場を作っている、

というあり方に刺激を受けたりしました。

 

教育実習で、体育祭の入場行進のできない生徒に

「犯人は誰だ〜さがせぇ!!!」と叫ぶ先生をみて、唖然としたものです。

管理主義教育ってイヤだなあ、と思ってしまいました。(これは管理、ですらないかもしれませんが)

 

しかし、

吉田先生は、「管理」は必要だ、と明言するのです。

ただし、

・管理しなければいけないところ

・管理しなくてもよいところ

・管理すべきでないところ

の区別を明確にする。というスタンスです。

 

私が「これは明日からやろう」と思ったのは、遅刻に対するスタンス。

吉田先生は「チャイムが鳴り終わった時に自席にいなければ遅刻

というルールをつくっていたそうです。

 

こういうルールを設けず、なあなあにすると、

A「教室に足を半歩踏み入れてたからセーフ」

B「廊下でAの姿をみてたからセーフ」

C「階段でBに押されてよろけたからセーフ」

などの言い訳を認めざるを得なくなり、

 

次第に、「前はセーフだったじゃないか」とか、

「前を走るあいつの姿をみていたから学校にはいたんだ」

など言い訳をする生徒が増え、

その都度対応に四苦八苦することになる、という理屈です

 

(読んで下さっている方には、バカみたいに聞こえるかもしれませんが、学校の実態はこういうものです。そういう学校のルール・体制自体が・・という話はここではしません。会社でも同じ事です。)

 

私は、管理を忌避する気持ちが強かったので、このルールを設けず、まさになあなあにやっていました。

それでなんとかなっていたからです。危ない。

落ち着いている時にこそ、しっかりと土台を意識的に作り、

「◯◯だから、いいクラスの雰囲気が保てている」

と認識できるようにしたいと思います。

 

ということで背筋が伸びる本・先生との出会いでした。

 

ではまた!(カープ強い!!!)