やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

教育に携わるなら大村はまを読んでみようという話

つかの間の連休で、「教育に携わるならこれはやっぱり外せないんだな!」と思ったのはこちらの本!

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

 

とにかく、その古くて新しい主張を紹介してみます。

 

①学校組織を踏まえた上で…

子供にとって先生は同格なのだから、先生に上下をつけて本当の勉強はできない。「従の先生だな」というのが心の底にあって、しかも一生懸命勉強するというのはできない。

本当にそうですね、教員がまず独立した人格として機能していなければ、生徒はそれを見抜くでしょう。親に対してもそうですね。親のことを適度な距離をもって尊敬できないと、親の言うことを聞かなくなるor聞いているふりをする、ようになると思います。

 

②厳しいけど本質を突いたエール!

研究しない教師は先生だと思わない。なぜなら子どもは身の程知らずに伸びたい人のことだと思うから。伸びたいという精神においては、みな同じ。一歩でも前進したくてたまらない、勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子供たち。

研究していて、勉強の苦しみと喜びをひしひしと日に日に感じていること。そして、伸びたい希望が胸に溢れていること。これこそが教師の資格である。

「 子ども=身の程知らずに伸びたい人」

という定義がいいですよね。本当にそうだろうなあと思います。比較される中で自分に無意識にブレーキをかけてしまっている子どもが増えていますが、そのブレーキを除いてやるのが教員や親の仕事でしょうか。

 

③「もう年だから…」という人には痛烈な一撃

 古きに頼るは精神が老いてしまう未来に対して建設できないなら、さっさとやめた方がよい。(中略)自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。これを一人前の教師というのではないか。

痛烈ですねえ。

でもこれも言葉の根底には「教育」に携わるものとしての責任と愛情があると思うのです。大村はま先生の文章からは、特に前者の「責任」ということが本当によく伝わってきます。

「教員が尊敬されなくなっている」という事象についても、ある種それは当然かもしれないという見方を示しています。責任と自己研鑽がなく、ただ子どもがかわいいから、等の理由で教員になったとしたら、それは児童・生徒がかわいそう、というような感じです。

 

でも本当にそう思いますね。

「子どもがかわいいから」という理由で特に中学高校の教員になってしまったらしんどいと思います。かわいくない瞬間もいっぱいあるからです。笑

だからこそ、手を焼く生徒指導のシチュエーションを例に出し、あなたならどうする?と採用試験で質問するのです。それが現実だからです。子どものかわいさが自分を安住させるなら、危ないですよね。

 

大村はま先生の本を読むと、びしっと背中がのびる思いです。

そして同時に、この職を選んでよかった、と本気で思います。

なんて素晴らしい仕事が与えられているんだろうと。

勇気がもらえる言葉がたくさん詰まっています。教育を志す方には是非おすすめです。