やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

教員はどのように自分の仕事の評価を獲得するか?〜強い教員集団とは?【多賀一郎×苫野一徳】コラボイベント感想②〜

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こちらの記事の続編を書こうと思っていたら時が経ってしまいました。

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記事末尾で、

この辺りの言葉をとっかかりに、続編記事をまた書きたいと思います!

・信頼する=覚悟、腹を決めるしかない

・教員がとにかくお互いを知ることが「自由の相互承認」を育める学校の第一歩

・自分の授業に感じる違和感を温めよう

・皆で探究を評価し合う仕組みをどうつくるか?

と言っておきながら書いていなかったので、備忘録としても書いておきます!

もくじ

信頼する=覚悟、腹を決めるしかない

多賀先生と苫野先生の対話の中で生まれた言葉。

本当にこの通りだと思います。教員は児童・生徒を信頼することが仕事です。

関連して、以前こういう連続ツイートをしました。

まず、裏切られても生徒を信頼するのが仕事です。

だから、課題がどうこうではなく、信頼することが求められます。

でも、そういう先生を傍目で見て、安住しそうになる自分はいないでしょうか?

実際に私もその言葉を聞いて、「生徒を信頼しないって、そういう気持ちになることもあるけれど、それを言っちゃあおしまいだよ」と思いました。

が、そこで終わってしまっては、教員集団としては弱いですよね。

(自分は)大丈夫」と思って自分の教員としての働きに安堵していてはいけないと思うのです。

連続ツイートの2つ目にそのことを書きました。

ここに、教員集団の難しさも含まれていると思います。

つまり、誤解を恐れずにいうと、

教員は「自分はあの先生よりうまくやっている」みたいなことを思いがちな仕事なのです。(仮説ですが)

で、そこに安住してしまって、「生徒を信頼できなくなった」とこぼす先生と自分を比較して相対的に安堵する、という構造が生まれるのではないか。

この仮説が正しいとすると、次の疑問が浮かんできます。

なぜ、「自分はうまくやっている」と思いがちなのか?

何だろう、私も企業にいた時は明確な評価軸があったんですよね。

給与であったり、役職というわかりやすい評価もあれば、

上司からの評価だけでなく、360度評価制度など上司と部下という縦の関係以外の方からも評価を頂ける機会がありました。

そうなると、例えばお客様相手の仕事で明確な結果を出して“評価”されて、給与UPや昇進という目に見える正のフィードバックを受け取っていたとしても、

ガツガツした雰囲気で社内や部署内では煙たがられている、となれば、それは“評価”されていないわけです。

健全な感性の持ち主であれば、その目に見えない負のフィードバックを社内から受け取っていることに気づいているはず。

このように、私も企業時代は「評価」されないことがない、という感覚を持っていました。そのステークホルダーも多く、様々な視点から評価されました。

しかし、教員は違うのです。

学校組織には、企業のような評価の仕組みがありません。

私立学校であっても、そのような制度がある学校を聞いたことがありません(民間企業の評価制度が“良い”と必ずしも言っているわけではない)。

では、教員はどのように自分の仕事の評価を獲得するか?というと、その機会は大きく3つあると思っています。

①生徒からの評価

授業で、HRで、部活動で、絶えず生徒から評価されます。

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人間は知らないうちに自他を評価する側面のある生き物です。

(優越感とか劣等感に悩む生き物は人間だけ?かと今ふと思いました)

あなたが教員だったら、「〇〇先生マジ無いわ」などの愚痴?を生徒が吐きに来た、という経験はきっとあるでしょう。

教員は「自分のことを評価してくれる生徒」の評価ばかり聴いているものです。

②保護者からの評価

これが①と一致すると辛いですよねえ。

保護者には必ず「共感」と「同調」が異なることを保護者会で伝えています。

お子さんの訴えに耳を傾け、心で聴いていただきたい。共感していただきたい。

でも、同調し続けることは気をつけてほしい。

それは、学校や社会を頼らなくなってしまうからです。

家庭内の論理に支配されてしまうからです。

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本題では無いのでここまでにしますが、要は、保護者からも(知らないうちに)評価されているのが教員です。

③同僚(教員集団)からの評価

そして3点目がこれです。これがなかなか曲者ですね。

学校によっては、管理職の評価と、同僚からの評価が異なる場合もあると思います。

教員は人間を育てることに携わる仕事です。

当然、教員にも多様性が必要です。仕事はゆっくりでも生徒と目線を合わせて雑談をし続けることができる先生、誰よりも厳しく暖かい愛を持って生徒に接する先生、キレキレで授業のカリスマ的先生…特徴はキリがありません。

何を持って他の先生方を評価するか、というと、究極的には教育者としてどうあるか?だと思うのだけれど、教員は労働者でもあります。

仕事ができる先生とそうでない先生は明確に存在します。何を持って互いを評価するか、というと難しいところです。多義的で曖昧だというのが③のポイントです。

話を戻します。

教員は「自分はあの先生よりうまくやっている」みたいなことを思いがちな仕事なのです。(仮説ですが)

で、そこに安住してしまって、「生徒を信頼できなくなった」とこぼす先生と自分を比較して相対的に安堵する、という構造が生まれるのではないか。

という構造を、先の3つのフレームで語り直すと、

ある教員が

生徒と信頼関係を築けていない(①の評価が低い)という側面を見て、

相対的に自らのあり方に安堵する(③の評価を自分で高める)ような意識が教員には常にあるのではないか、ということです。

これこそが

なぜ、「自分はうまくやっている」と思いがちなのか?

に対する答えになるのではないでしょうか。 

ここで満足する教員が多いと、やっぱり「学習する学校」としては弱いと思ってしまう。

ではどうしたらよいか?というと、月並みですが

 教員がとにかくお互いを知ることが「自由の相互承認」を育める学校の第一歩

という苫野先生の言葉が、学習する学校づくりにとっても、第一歩だと思います。

おわりに

全然イベントの感想記事じゃないし、何が言いたいのかわからなくなって来たけれど、

教員の自己評価って本当に難しい、し、精度の高い自己評価を抱けるような仕組みをチームで作っていける学校っていいよね、と思っています。

桐蔭学園さんのようにIR部門を作って教育をエビデンスで語っていく、そんな学校の教員集団がどんなチームビルディングをしているのか、も気になるところです。

※評価については「論文や学会発表、教員コミュニティでの実践共有」など、社会的な評価を今回は除きました。①〜③の評価が伴わずして、社会的な評価がUPすることはない、と思ったからです。