やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

迷いと限界 ー1人で40人を支援することー

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 2019年に入り、高校3年生の授業がなくなり、部活もピークではなくなりました。

論文を書いたり、担任させてもらっているクラスのことをもっと丁寧に見たり、授業でも一人ひとりの大福帳をしっかり返信したりできると思っていたのです。

ところが、現実はそうはいかずあっという間に2ヶ月が過ぎ、3月。

精神的な負担

結局2カ月間何をしていたのか、と言われれば通常のように分掌の仕事をし、入試のための準備を担い、来年度に向けてビジョンを描きつつ、普通の毎日。

だけど、圧倒的にこの冬は精神的な負担がこちらにも大きくのしかかったと感じています。

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冬は授業の多くが、通常の講義ではなく、1年の集大成としての生徒主導プロジェクト型学習であり、それを1人でマネッジするのはなかなか骨が折れた。

ツイートが良い日記がわり

どんな気持ちだったかはツイートを見れば赤裸々である。

①疲弊する生徒

➡️これは辛い言葉だった。表情も、絞り出しつつも放り投げるように言ったあの言い方も、結構こちらもショックであった。「この生徒にこんなことを言わせてはいけない」と今でも思う。こう言わせた課題を来年度どう解消していくか。

 

➡️結局、こういうことなんですよね…1人であがいても仕方ない。

 色々策は練っているし、手札はある。ただ、手札の有効性を確かめられないまま年度が終わってしまうことに自分の中でのストレスかな。

研究対象が動かないモノだったらどれだけ楽だろうと思ったりするけど隣の芝が青いだけ。

②人間関係のトラブル

余裕のない中でしゃしゃり出るといけないんですよね本当に。

そんな中生徒とこういう話をしている時は幸せである。

生徒と未来のまだ見ぬ理想を語り合ってる時が一番楽しいというのはよくある話。祭りは祭りの準備が一番充実しているとか何だとか。

③Twitterでのあれこれ

自分のせいで食傷気味になっているこの言説。

Twitterを見る時間が増えている(iPhoneのScreen Timeが有能✨)のだけれど、

一番思うのは、教育関係者同士が、特に協働的なストレスのかかる学びを「押し付け」だという言説に加担していること。

もちろん、デザインのないALは言わずもがな良くない授業だけれど、「おれはそんなのは嫌いだ」とか言い始めたら、学校という装置で働いているのにそれはないんじゃないの、と思ってしまう。

負荷の低い教育だけやっていればそりゃアンケートの満足度は高まる。

私も一番生徒からのアンケートで高得点なのは「講義」である。生徒に負荷が少ないからだ。いるだけでいいからだ。

シビアに詰められたり、思うようにいかない、というストレスが少ないからだ。

ただ、年間ずっとそれでいいのか?という問いにどれくらい真剣に向き合うかは教員の裁量でもある。ここから逃げたくないという思いがある。逃げれば、見られるはずの生徒の素晴らしい面が見られなくなるからだ。おこがましいけれど。 

 

おわりに ーぼやきー

持続可能なモデルにしていかないと、どこかでひずみが出てきてしまう。それが致命的なものになる前に、自分を脱皮させていかないといけない。

教育は難しい。時間をかければかけるほど、良いものが生まれるという呪縛。そもそもパターナリスティックな介入をしているだけなのに、「よい教育」が一人を動かすことがあるというところから逃れられない。

ビジネスは最後お金に割り切れる部分がなきにしもあらずだけれど、教育は底なし沼。

底なし沼でどこまでも献身的に尽くす先輩を見ていると、「ああなりたい」「ああはなれない」がせめぎ合う。

新年度は受験生と一緒に生きる年度になる。年度末には一旦色々と整理をして気持ち新たにいきたいところ。捨てることを恐れずに〜。