昨日同じく中高一貫校で勤めておられる先生のこちらの記事を読みました。
オルタナティブ教育については、大学時代に少しばかりかじっていたのですが、間違いなく今後も日本で導入?というか法制化されてほしいと思っています。
なぜ法制化されてほしいかというと、
先の先生のお言葉を借りれば、
学校という空間は、色々と息苦しい。そういう子どもにとって、学校にくる必要がない、学校という箱でなくてもきちんと教育を受けられる選択肢があることを願わざるを得ない。 それは、自分の目の前から去ってしまった子どもたちにも、きちんと生きていける道があって欲しいという願いであり、非常に個人的なものではある。
ICTがオルタナティブ教育の可能性になる? - ならずものになろう
という願いを私も同様に持っていますし、
そういった子どもたちも、「教育を受ける権利」という人権を持っているからです。
もっと個人的な考えを言うと、
「誰しもが、その人の意思に関わらずなりうる可能性のあることについては、ある程度国家が保障すべき」と思っているからです。
自分の子供が不登校になる可能性、自分の子供が同性愛者である可能性、こういうものって、彼らが選び取ったわけではありません。
たまたま多数派とは違っただけで、よくないこと、ではありません。
たまたま少数派であったことが、その人の人生に不利益をもたらす、ような社会構造はできるだけ少ない方が、彼らにとっても、また社会全体にとっても益があることだと考えています。
法制化については、すでにこういう動きもありました。
「オルタナティブ教育法 骨子案」
http://aejapan.org/wp/wp-content/uploads/359ffc5260705c97bbe2239f68ed9224.pdf
ただ、これはまだ実現されていません。
その理由には、日本国内で「学校」と言われるものを考えると、「一条校」という原則があります。これは学校教育法の「第一条」で、「学校」と呼ばれるものは以下の
幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校の8つである。という規定のことです。
つまり、簡単に言うと
上の8つの名前がついていない学校は、「学校」ではない、とみなされる。
ということです。
したがって、オルタナティブ教育については、フリースクールという形で、行政の外で行われてきたものでした。当然、教育費負担は受益者負担の原則ですので、家庭の経済力によっては、フリースクールに行こうと思ってもいけない、という状況がうまれます。
「学校」でないオルタナティブ教育には、そんなジレンマが伴います。
少し言い過ぎかもしれませんが、
その子の意思にかかわらず、ただ「学校」に合わなかっただけで、教育の機会が奪われ、家庭の経済力にその子の社会進出の可能性が左右される、と考えると、これは日本社会にとってもマイナスだと思います。
その意味で、話題となった「N高」はこの法的なハードルをこえた一条校です。
ということは、
国が、N高を「学校」として認めている。ということです。
N高のHPをみればわかりますが、スクーリングは年1回、5日間だそうです。
それ以外は自宅で学ぶことができる。
こうした形態を国が認可したということは、間違いなく時代がそういう風に動いていくものと思っています。(というか動いてほしい。)
まとまりがなくなりましたが、
「不登校」という言葉に含まれる「マイナス」のイメージが拭われ、
どんな子も自分の人生を肯定できる社会に、成熟していってほしいと願います。
そしてそのことを、教育現場でも肯定的に伝えたいですね。
「ふつう」に生きている生徒たちにこそ、こういったことを伝えたい。なぜなら社会を構成するほとんどが自分を「ふつう」と思っている人だからです。
社会に対する「ふつう」の幅を広げる場として、学校を機能させたい。
社会科教員としての願いでもあります。
もう少しソースや思想的な背景を書くべきだったかと思いますが、ブログで短くしっかり書くのって難しいですね。諸先輩方のブログに学びつつ、アウトプットを絶やさないようにしようと思います、
ではまた!