やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

教員の商売道具は、「知識」なのだろうか。

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あなたの「商売道具」は何ですか?と言われたら、何と答えますか?

 

これを考えるきっかけになったのは、散髪をお願いしている美容師さんとのこんなやりとりでした。

◯美容師さんと私の会話

私「美容師さんのはさみとかポーチとかって全部私物なんですか?」

美容師さん「そうですよ〜完全に自費ですよ!

私「手当とかもでないんですか?!」

美容師さん「出ません出ません笑 人によりますけど、ハサミの営業とかすごいですよー。なんだかんだ、このポーチに入ってるものひっくるめたら30万くらいしてるんじゃないかな。」

私「え!!30万!すごいなあ〜まさに商売道具ですね・・・」

美容師さん「学校の先生でもそういう商売道具ってあるんですか?」

私「うーん…(黒板もチョークもノートもペンも何でもいいな・・・はさみみたいな商売道具ってあるのか・・?)ないかもしれませんね〜」

 

美容師さん「先生は知識が商売道具じゃないですか〜!頭の中に商売道具があるっていいなあ!美容師が腕さえあればどこでも働けるように、知識さえあればどこでも働けるでしょ!」

 

私「いやいやそんなことないですよ笑 でも知識か〜なるほど・・・」

 

◯知識が教員の商売道具と言われて…

 

私は恥ずかしながらちょっと嬉しかったんですね、このとき笑

確かに知識なしに教員は務まらないし、知識をうらやましがられて悪い気はしなかったんです。振り返ると、とても傲慢で恥ずかしいことですが。

 

確かに、生徒が「面白い!」と思えるような授業をつくるため研究をします。

実際に、私の話に食いついてくれたり、授業が面白い!と言ってくれることはとても嬉しく、教員冥利に尽きることです。

 

でも、

果たして「知識が教員の商売道具なのだろうか?」という疑問が拭えませんでした。

そこで考えていたのですが、少しみえてきたような気がしました。

 

◯みえてきたこと

 

を簡潔に言うと、

私が知識をもっていることをほめられて喜ぶのではなく、

生徒が知識をもち、考えを深め、伝え合えることを喜ばなければいけない、と感じました。

 

「喜ぶ」という感情を

「なければいけない」と強制することは自分に対してでも非常に難しい事ですが、

 

生徒が知識をもち、考えを深め、伝え合えること

ができるところまで含めた教員の知識は、商売道具になりうる気がします。

 

誤解を恐れずに言うと、

教員が「知識=商売道具」として考えているうちは、イマイチ。なのかもしれません。

なぜなら、そう考えているうちは、教員がその知識を伝達する事に喜びを覚え、満足してしまう可能性が非常に高いからです。

「自分の話(知識)に食いついてくれたから嬉しい」というのは、

その先生の力量ゆえかもしれませんが、

本当に喜ぶべきはそこではない。(素晴らしい先生方にとっては当たり前かもしれませんが笑)

 

生徒が知識をもち、考えを深め、伝え合えること

ができる授業を構成するために使った知識であれば、本当の商売道具と言えるかもしれません。

 

知識というより、知恵なのでしょうか。

大変月並みですが、「生徒の可能性を引き出し、広げる」ことのために、

知識という商売道具をもちたい、と思う今日でした。

頑張らねば!!