やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

担任として生徒に嫌われることよりつらいこと

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前回の記事で、教育困難校の現場で奮闘される先生の声を紹介しました。

コメント欄には、「異動先は基本は選べないですからね」という現役の先生からのコメントも。

yacchaesensei.hatenablog.com

これは記事中で言及できなかった公立と私立の大きな違いでした。ありがとうございました。

つまり、誤解を恐れずに言えば、私立は「生徒の学力レベル」や「教育理念」などを選ぶことが出来る、ということ。(もちろんその分、専任の求人が少なく、採用されるまで大変ですが)公立はその選択権が教員にありません

民間企業とも、私立学校とも、これは大きく異なります。

例えば、就活。同じ「商社」でも社風が違い、自分の行きたい「商社」を就活では選ぶことが出来るのに、「公立学校」は選ぶことが出来ません。

言うなれば、「商社だったら、どこでも文句言わずにやってくれるってことだよね?」という状態でしょうか。(言い過ぎ?)

 

それに加えて、部活動顧問が乗っかってくる。

さらに、本業の教科教育でも、紹介した先生のダイアリーのような辛い状態であれば、これは相当にしんどいことが想像頂けるでしょう。

 

◯生徒に嫌われること

そんな状況で、さらなるストレスとなるのが、生徒との人間関係のこじれ。

その結果、生徒が自ら命を絶ってしまう、こともあるのはご承知の通りです。

生徒が自死を選ぶことは、何があっても防がねばならない、ことは言うまでもありません。教員は生徒に信頼される存在となれるよう努力しなければいけない。

一方で、生徒指導の過程で、生徒が教員を嫌いになることは往々にしてあり得ます。(もちろん教員側に明らかな「非」がある場合は別です!)

特に、「好かれよう」と思っていたら、教員という仕事は厳しい

目的のためには、自分から「必要悪」的な存在にならねばならないこともあります。

また、教員側の意図とはまるで別の所で、生徒からわけもわからず嫌われたり(逆もあるのだが)、挨拶しても無視されたり、そんな理不尽はつきものです。

したがって、「生徒に嫌われること」に汲々としていてはいけないと感じています。

それよりもつらいことがあるのです。

 

◯それよりもつらいこと

ずばり、保護者が子どもと同じ見方をして、教員を評価することです。

これはしんどい。特に、思春期の生徒を相手にしているときはしんどいですね。同僚の後輩が今非常に苦労していますが、私にもよいアドバイスができません。

 

まだまだ自我が発達していないと、他者への印象論で話が膨らみ、そこに同調しなければ自分が仲間外れにされるという恐れを強く抱きます(嗚呼、日本社会…)

つまり、感情の共有によって(思春期の)人間関係はつながりを保ちます

(それをつながりと呼ばないんだ、という共通認識を持てるのは、一人一人の発達段階により異なるため、もう少し先の話)

 この「感情の共有」の対象が、教員になることがあります。

それ自体を教員が理屈で否定しかかってしまうと、これまた話がこじれる。

だから、ある程度の思春期・反抗期の振る舞いは、自分(教員)にとって腹立たしいことだとしても、時間が経つのを待つことも多いのです。気にせず、見返りを求めない愛情を注ぐことが求められます。(理屈のない反抗に対しては、理屈で押してもぬかに釘どころか、自体を悪化させかねません)

 

それをよそに、保護者が教員に対して子どもと同じ見方をし、

「教員に否定的な言動をとること」(コレは仕方ないが)

「あらぬ疑いをかけられること」

「生徒(子供)のいうことを鵜呑みにしそのまま信じられること」

が続くと、厳しいですね。

担任と保護者の信頼関係が崩れると、子どもは担任を信用しなくなります。

大人Aが、別の大人Bを信頼していないと、子どもは大人Bを信頼しません。

 

私は親ではないので、分かりません。でも、親の影響というのはやはり大きいのです。

親が良き「教育の理解者」であってほしい、と願う前に、親と信頼関係を築く時間ややり方を勉強せねばならない、と感じた月曜日でした。