教育は基準により人を断罪し、逸脱した者を排除するシステムではない
博多高校で起こった暴力事件について、様々な方が様々なことをおっしゃっている。
教育は、ほぼ誰もが経験したことがあり、物申せる分野だ。それは良し悪しがあれど、共通の土台にもとづいて多くの人が議論をすることができる分野、であると考えている。
だから、今回の事件についても様々な見解が出されてしかるべきだ。
ただ、2つ違和感が消えないことがある。
1つ目。
彼のしたことは、法の下で裁かれるべきだし、彼の事件後のSNSにおける態度は決して良いものではないかもしれない。
だが、SNS上で個人情報を特定し、晒しあげ、煽ることの先に何があるだろうか。
その先には、「なんでおれだけが!という思い」と「社会に対する憎しみ」を助長するだけだ。
そんな大人を育てることが教育だろうか。そんな社会に出よう、と思えるだろうか。
保護者をSNSで責めて何になるだろうか。保護者の多くは子供を守りたい一心に決まっているじゃないか。いくら子供に非があっても、SNS等で私刑にさらされるならば話は別だろう。
もう一度言う、
教育は基準により人を断罪し、逸脱した者を排除するシステムではない。
退学になった彼や保護者を受け止める先はあるだろうか。
尾木直樹さんは自分の影響力を分かっていない
これが2つ目だ。
尾木さんの言っていることは分かる。しかし、教員は「ことば」の職業だ。
自らの放つことば1つで、生徒は変わることがある。良くも悪くもだ。
教員は人一倍、ことばに敏感にならなければいけないのは百も承知だろう。
しかし、彼もまた被害を受けた教員を「断罪」している。
「尾木ママならあんなにけられ胸ぐら掴まれっ放しにしませんね 毅然(きぜん)として刑法に基づいて【正当防衛権】行使します!! 自らの正当な権利の行使も出来ないとは情けない教師ですね」
他の記事も合わせて読めば、尾木さんに”見出し”のようなあからさまな悪意がないこと、教員だけでなく学校を応援していることは伝わる。
が、とても残念だ。なんて想像力がないんだろう。
精神的にショックを受けているこの新任教員の経験は、一生付きまとうだけでなく、いつまでもネットに情報は残り、取り出される。
影響力の大きさをわからず、「情けない」という言葉を使うことが、1人の新任教員にどういう負の影響力を及ぼすか、の想像力がないのかと思うと、私は悲しい。
リスクを考えることは、教員にとって必須の思考だ。
それは今回の場合、
「もし、彼がこのブログを読んだらどう思うだろうか?」という思考だ。
結果的に、この新任教員がタフで、意に介さず頑張ることができれば、それはそれでいいじゃないか。
どうして、1人の教員をつぶす可能性があることばを選ぶのかがわからない。
おわりに~大村はまのことば~
偉大な実践家・大村はまはこういっている。
こころをみがき、こころをみがく ・・・「みがく」ということは、そのものを大切にし、そのものに愛情を持っていることですね。どうぞ、ことばを大切にし、ことばへの愛情をもちつづけていってください。・・・ことばを、そのはしばしまで正しく使うことでしょう。どんな小さい傷もつけないように使うことでしょう。
尾木さんは、この新任教員という”仲間”と、自らの言葉に対し愛情を注げているだろうか。