読了。達成感と解放感がすごいです。笑
正直、後半はかなりペースダウンしました。それはきっと
この後書くように、今の自分に必要としているものとは少し違ったからかもしれません。
※今までの書評記事を、章立てに合わせて貼っておきます。
スタート 1・2章
【書評】『学習する学校』①全おとな必読の第1章~産業化時代の教育システムとは?~
【書評】『学習する学校』②教育を変える5つのメソッドとは?~第2章:100年の研究が教える方法~
第1部 教室 3~7章
【書評】『学習する学校』③まず教室で何ができる!?~第3~7章:選りすぐりの実践がズラリ~
第2部 学校 8~12章
【書評】『学習する学校』④正直に感想を言おう。~第8-12章:本気で学校を変えたいなら…?~
第3部 コミュニティ 13~16章 ←本記事です
さて、今日は第3部のコミュニティ編です。ついに書評も最終回。
ここまでのまとめ
従来の教育観や問題点を認識し、それを変えていく理論である5つのディシプリンをふまえた上で、第1部では「教室」で何ができるか、どんな実践がなされてきたか?をみてきました。
第2部では「学校」レベルではその実現に向けて必要な視点や、学校長・教育長などの経験談が語られていきます。まさに、原題の"Schools That Learn"をどう作るか、ということにページが割かれています。
でも、そこで強く感じたことは、
正直に言って、この本を読んで学校が劇的に変わることは想像できない。
学校という組織は、どうしても年長者の存在感、影響力が大きいからだ。
大企業から転職して思うことは、1つの「学校」に100人教職員がいたら多い、という程度の組織にもかかわらず、意思決定への影響力は圧倒的に年長者が持っているからだ。
ということ。実際に「学習する学校」を作るプロセスは学ぶものが多かったが、一方で、自分でも情けないような気もしますが、現状に対する「あきらめ」「どうしようもない感」も大きくなっていきました。
その微妙な気持ちの中で、ついに第3部です。
第3部 コミュニティ を読んでみて…
ちきりんさんが書評記事を書くときのコツを発信してくれたのでこれに倣って書いてみようと思います。当たり前のようで、意外と引用ばっかりになっちゃうんだよね。関連ツイートもとても参考になったので、興味ある方はご覧ください。
本を読んだとき、その感想をブログに書く人はたくさんいると思うのだけど、そういう人にぜひお勧めしたいのが、「本に何が書いてあったか」だけでなく「その本を読んで、自分は何を考えたか」をぜひ書こうよ、ってこと。前者は他者の思考や知識だけど、後者は自分の思考なんだから。
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2018年1月30日
さてさて、読んでみてどうだったか。自分が考えたことを2点、まとめておく。
①地方の公教育がもつ、∞の可能性!
私立高校に勤める自分との立場の違いを感じずにはいられなかった。
全体として、第3部は学習する学校を支える「地域コミュニティ」に焦点が当てられていて、正直、年に数回の行事や通学マナーの苦情でしか地域との接点を感じる機会がない自分の属している学校との差は大きい。
元々、地方出身の私にとって、教育における格差、なかでも家庭の経済・文化資本が格差の再生産を助長していることは、大きな問題だと感じているので、なおさらです。
その意味では、例えば同じ高校という学齢で思い当たる2つの素晴らしい例を紹介したい。まず、島根県隠岐の島の海士町なんかは、まさにこの本と重なるところが多いだろう。隠岐島前高校の実践例は本当に魅力的だ。
それから、これも島根県だけれど、津和野高校の魅力化プロジェクト。
こういった実践をみると、「ああ、この本で書かれている『学習する学校』とそれを支えるコミュニティだよなあ」と感じる。
もちろん、中に入ってやっている人の苦労や葛藤はあるんだろうけど、そのあたりは本書を通じて疑似体験することができる。
ただ、実際どこまで”メカニズム”として「学習する学校」のディシプリンが浸透しているか、はわからない。まあ、都会の高校でのうのうとやっている自分にそんなことを論評する資格など一ミリもないのだけれど…。
地方出身者として、地方への思いというのはやっぱりくすぐられるものがある。これでいいんだろうかと。うーん。
②社会課題と出会わせたい。
いいたいことを一言でいえば、社会科教員として私が大切にしていることを思い出させてくれた。つまり、平和の担い手を育てること、そしてそのために社会課題と出会わせること。
そんな教育を志して今の場所にいるのだった。p856にこんな言葉があった。
産業化時代が持つ根深い不均衡という問題を理解し、その問題を指摘して自分から積極的に行動を起こせる人を育てること
これは、自分にとってはとても大切な言葉かもしれない。
本書の中では、全然強調もされていない箇所だけれど、自分にとってはとても大切なことだった。というのも、
よく、「最近の学生は自分の意見がない」「素直だけど、骨のあるやつが少ない」みたいなことを聞くけど、本当にそうだろうか?と思っていたから。
意見はもっているし、きちんと思考プロセスを踏めば、批判的思考だって全然できる。むしろ足りないのは、
自分が「おかしい!」と心から思う社会課題に出会う経験ではないだろうか。
自分のツイートで恐縮だが、先日、大手新聞社の方々と色々お話ししたことと重なる。
今日は大手新聞社の方とお話しして思ったことの備忘録。日本の教育において、社会課題と自分とを結びつけることが決定的に欠けてきた。
— やっちゃえ先生@読書の冬 (@Yacchaee) 2018年2月2日
例えば、アメリカでTeach For Americaが就職ランクTOPなのはその証左。果たして日本はどんな組織がランクTOPか?と言われれば違いは明快。
卒業までに、自分が最も気になる(/不安視する/なんとかしたい/考えるべきだと思う)社会課題を何か1つでも見つけさせたい。この、自分を大きなものに位置付ける視座を高校で養いたい。それがキャリア教育を兼ねるのでは。
— やっちゃえ先生@読書の冬 (@Yacchaee) 2018年2月2日
そういえば今まで一番心に残った他校研究授業も社会課題への視座絡んでたなあ。
なぜ日本が社会課題への視座を欠いた教育をしてこれたかというと、一億総中流だったから。なるほど、皆が中流なら、社会課題の認識は薄くなる。ちなみにアメリカは違う。自己責任と格差、人種の要素もあり、そもそもが課題を顕在化させた国。それは同時に、自分ごとで社会を捉えるチャンスに溢れた国。
— やっちゃえ先生@読書の冬 (@Yacchaee) 2018年2月2日
もう一億総中流ではない社会、いろいろな「ひずみ」が顕在化してきた社会、その社会において、また昭和のパラダイムで人を育てる限界は皆がわかっている。
でも、偏差値教育の怖いところは、わかっていてもやめられないことだ。
生徒だって、簡単に偏差値に絡めとられていく。でもそれは構造の問題で、生徒の問題ではない。そして自分1人が教育システムを変えられるわけでは毛頭ない。
しかし、それでもできることはあるだろう。
それが、社会課題と出会わせることではないだろうか。言い方がどうしても仰々しくなってしまうし、自分は安全な場所からモノを語る立場にいてはいけないのだけれど。
一緒に向き合って、生徒の人格形成を、というか人格がのびやかにのばされていく手助けができれば、と思う。
おわりに
ちきりんさんのアドバイスに倣って書いてみたら、結局自分が思っていることを言うだけの記事になってしまった。
こんな終わり方でいいのかわからないけど、これで『学習する学校』書評記事はおしまい。お付き合いいただき、ありがとうございました!

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する
- 作者: ピーター M センゲ,ネルダキャンブロン=マッケイブ,ティモシールカス,ブライアンスミス,ジャニスダットン,アートクライナー,リヒテルズ直子
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2014/01/30
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