3月は期末試験、一気に年度末の実感が押し寄せます。採点祭が始まる前に、観たかった映画を見てきました。
今日の記事は、いつも以上に自分の視点をさらけ出しているので非常に恥ずかしい。
- グレイテスト・ショーマンが無意識に行う線引き
- 功利主義って何だ?
- 徹底した功利主義者:ピーター・シンガー
- シンガーの問いをこの映画に適用してみた
- グレイテスト・ショーマンが見ていないもの
- となれば、次に私たちが考えるべきは…
- おわりに
一言で感想をいうなら
極上のエンターテイメント、と一言では片付けられなかった。
個人的には、自分に巣食う偏見と対話する映画だった。
映画自体は社会派ではなくエンタメ寄り、ミュージカル、100分ちょいの映画なので非常にテンポが良く、重た〜いと思わせる描写はほとんどない。
しかし、(だからこそ?)自分は観ながら
「人間が無意識的に行なってしまう線引きはなぜ生じるか?」を考えてしまった。
なぜそんなことを思ったかを、簡単にまとめておきます。
グレイテスト・ショーマンが無意識に行う線引き
映画で登場する人物は非常に単線的な人間像として描かれる。
子供は子供、差別する人は差別する人、であり、
その1人の中にある人間の多面性に焦点は当たらない。
見た目で差別されるマイノリティvs異質を排除したいマジョリティ
という構図も、言い方は難しいが典型的な構図であった。
でも、その構図ってなんでそうなんだろう?、映画が前提としているその線引きで、逆に見失っているものはないだろうか、と考える。
そこでその見失っているものを見つける為に使うのが、功利主義者の問いだ。
功利主義って何だ?
功利主義の基本的な立場は、
①「社会=個人の総和」
であるがゆえに
②「個人の幸福が高まる=社会の幸福も高まる」
という2点である。思想家によって「幸福」の定義は異なるものの、個人の利益と社会の利益の一致を目指すところに主眼がある。
徹底した功利主義者:ピーター・シンガー
現代の功利主義者といえば彼を紹介しないわけにはいかない。
一言で言うと、徹底した功利主義者だ。
例を挙げれば、「動物と人間に道徳的に重要な違いはないのだから、人間が動物を殺したり利用したりするのはおかしい」としてベジタリアン&革製品不使用になった。
同じ理屈を、貧困支援にも適用する。
「貧困にあえぐ人と裕福な人に道徳的に重要な違いはないのだから、貧困に手を差し伸べるのは義務である」として給料の約30%弱を寄付している。
この2つの例に共通しているシンガーの疑いは、
人間が無意識的に行なっている線引きについて、
「その線引きは本当に道徳的な違いに基づく線引きか?」
という問いだ。
そしてシンガーは先の2つ、ともにNOという。
だから、彼は「道徳的な違いに基づいていないのであれば、我々と彼らを隔てる必要もなければ、隔てることはできない」とするのだ。
シンガーの問いをこの映画に適用してみた
となると、シンガーの問いを援用して私が導いた問いは、
「差別されていたマイノリティと、差別していたマジョリティの線引きは本当に道徳的な違いに基づく線引きか?」
という問いであり、その答えが(当然)NOなのだから、
「線引きしていたことで、見えていなかった立場の人々はいないのか?」である。
功利主義は、私たちが無意識にする線引きの恣意性をこうして暴き出してくれる。
グレイテスト・ショーマンが見ていないもの
先の問い、
「線引きしていたことで、見えていなかった立場の人々はいないのか?」
に対する私の答えは、YESである。
シンプルな構図で映画を進めることで、見えていなかった立場の人がいる。
私の表現で言うなら、それは「持っていない人」だ。
具体的にいえば、
言葉でコミュニケーションが難しい、自由に身体を動かすことができない、そのような状態にある人
のことである。映画でも、ここまで掘り下げて欲しかった。
なぜなら、
映画では「もっていない人」と描写されていた登場人物たちも、言語によるコミュニケーションが可能であり、ダンスや歌唱などを問題なく行うことができる、という点ではもっている存在であるからだ。
映画の構成上、彼らはもっていない人たちとして描かれるが、持っているのだ。
「持っていない」ものを強調されているだけだ。
となれば、次に私たちが考えるべきは…
本当に「持っていない」人だ。
つまり、「持っているとはいえない人」(このような表現に自分の偏見がにじみ出てくるのだが)とどれだけ共に生きていけるかだ。
言葉でコミュニケーションが難しい、自由に身体を動かすことができない、そのような状態にある人とも、「ありのまま」に共に生きていけるか?
ここまで考えなければ、
結局自分が受け入れられる都合の良いマイノリティと共に生きて行くことしか選んでいない。
そもそも共に生きる、って「である」もので「する」ものではないと思うのだけれど。この辺りは丸山眞男の「であることとすること」をぜひご覧ください。
もちろん、主人公のバーナム氏が実在した人物なので、史実と異なる演出はしにくかっただろうが、例えばエンドロールで
「もっていない人、と表現してきた登場人物たちも、言語によるコミュニケーションが可能であり、ダンスや歌唱などを問題なく行うことができる」という点ではもっている存在であり、その意味で「共に生きる」前提としている対象もまた狭いものである、が彼の果たした功績と現代に投げかける意義は大きい」
のようなコメントがあったら、嗚呼、と唸った映画になった。
ただ、この私の見方もまた偏見に満ちている。
そうやって世界を分類して、自分なりに落とし込んで納得したいだけだ。
おわりに
いずれにせよ、こうしたテーマに向き合ったのだから、そこまで考えて悩み、製作者側は発信して欲しかった。というのは欲張りですね。
音楽がとってもよかったです、ミュージカルはやっぱりいい。
アメリカという国がもつ人種やマイノリティへの絶えざる意識がこうした映画を生み出すのだろうか。うーん。
なんか考えていて音楽の良さにも酔っていたら100分あっという間でした。
劇場の音響でぜひご覧ください!