やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

【書評】『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』②〜素晴らしい教師に必要な条件とは?〜

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

昨日の第1章書評に引き続き、今日は第2章「ワークショップの準備」です。

いきなりですが、「素晴らしい教師に必要な条件」とは何でしょうか…?

※ちなみにアトウェルは、読むことを学ぶ授業において、「1日1章」のような区切り読みは勧めていません(笑) 

素晴らしい教師に必要な条件とは?

第2章の最初のページは、この問いに関する話から始まります。

著名な教員がアトウェルのワークショップ授業を見学に来た際、「素晴らしい教師に必要な条件を、君はちゃんとわかっているからね」という言葉をかけられたそうです。

何を指してそう言っているのか?とアトウェルが尋ねると、その教員はこう答えたと言います。(以下引用における色・太字は筆者)

「君の授業は、最高に手順が整っているんだ」

さらに続けてこう言われたそうです。

「手順が整っていない限り、この教え方で書くことを教えるのは無理なんだよ。これは生徒が自由に学ぶ授業ではないからね。(中略)君もジャコビー先生も、いつも統制のとれた教室運営をしているよね。」

授業、特にアクティブラーニングが「活動あって学びなし」に陥る時は、この逆、つまり手順のない、統制のない授業運営であるということが往々にしてありますよね。

「  」とは? 

その「手順を整える」とはどういうことか、わかった気になった私のような読者に対して、アトウェルが説明してくれています。

生徒が書き手と読み手として成長するために、一人ひとり、それぞれのニーズを明らかにし、それを満たせる機会を十分に提供することです。その場とは、生徒が授業の中でやることをわかっており、安心して挑戦できる場を意味します。

これは、「それが良い教育だよね」と皆が納得できそうな本質を示した言葉だと思います。

そのためにアトウェルがしていることは、

授業中に生徒自身が読み書きをする時間を取る。

これは実感としてわかるところがあります…

「皆の〇〇する力を鍛えたいから」という言葉ではなく、授業時間に何を行うか、が教員の発するメッセージです。

「宿題でやってきて」

という姿勢とは雲泥の差です。

もちろん宿題は適切な指導があれば効果を発揮することもあります。

が、例えば日本の小学校の夏休みの宿題とか、事前に書くための指導、読むための指導をしていないのに、いきなり夏は読書感想文、絵日記などが課されることがありますよね。

アトウェルの言葉を読むと、間違ってもそんなことできないな(笑)と思わされます。

高校で公民科を主に担当している私自身にひきつけて考えると、現実的な難しさもあります。日本の学校時間割では、単独で3単位以上与えられることはほとんどないでしょう…多くの学校さんも最低必履修単位の2単位を3年間のどこかで学んで終了です。

でもそんな制約がありながらも、やれることはある、と前向きにさせてくれる本ですね。 

と思っていたら、訳者コラム!

アトウェルから学び、アトウェルに共鳴しながら日本の学校で教える訳者からも学べるのですよ、これは本当にありがたいです。

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日本の学校でどう運営するか実例を示してくれる

さらに、参照すべき文献も提示してくれていますので、学びの幅が大きい1冊です。

ハードへのこだわり

この第2章の「準備」として何に紙面が多く割かれていたかというと、実は教室の環境、使う文具類などのハード面の話でした。

アトウェルの教室は、これを徹底的にワークショップ仕様としています。ひとえにうらやましいです。日本は教員専用の教室はほとんどないのでどうしても既存の学校教室に規定されてしまいます

学校空間にいると本当に様式に思考が規定されることを感じ取れます。

全員前を向いて座るあの教室を思い出してもらえれば容易に分かってもらえるでしょう…

だから、ハードにこだわれるのは本当にうらやましい。。丁寧な図版やイラストが本書には散りばめられていますので、単調に感じることもありませんでした。

自分の実践を振り返る

自分が実践して来たレポート課題にせよ新聞投稿課題にせよ、週2回かつ1クラス40人の授業で全員に個別カンファレンスを行うことは難しかった(しかも継続的・体系的に「書く」ことを教えてきたわけではない)ので、ピアレビュー(本書でいうピア・カンファレンス?)を行ってきました。

心のどこかで、「直接アドバイスしたり文章を読んでコメントした方がいい生徒がいるんだろう」というのは分かっていたけれど、

それをしてしまうと自分がパンクしてしまうのに加えて、コメントをもらった生徒とそうでない生徒の間に不公平感が生まれてしまうことを危惧していました。残念なワタシなのはわかっているんです…。

“成績をつける評価者”である自分がそれをやったら生徒は書くことに集中できないだろうな、という思いで、個別に文章を読んでアドバイスをするということはしませんでした。

が、やっぱりそれじゃダメだよなあ。

現実的には新聞投稿というジャンルに限られてしまうけれど、公民科も分野横断的なので少しずつ分野を変えて何度もなんどもやってみるのもありかな…

あるいは以前にも画策した外部の高校生対象コンテストとかコンクールに何か作品を出せるような学びを授業内で実現するか。

2017年の1月にこんな記事も書いていたけど、本当にそういうことですよ。

www.yacchaesensei.com

こういう学びがAO入試の出願においても…

原則は、当然だけれど、入試のために学ぶわけではない。学んだことが入試に生きるだけ。

ただ現実的に自分のクラスの生徒を見ても、この順序がどこか逆転しているような気がしてならないし、実際に3年生の推薦状を書いているとつくづくそのことを思う。

でも、このワークショップを通して、書くこと・読むことを学び続けてきた経験、自らの作品をつくってきた経験は、生徒にとって本物の学びになるだろう。

し、正直に言って推薦状を書く立場の教員を何よりも助けてくれる(小声)

教育とは

実際、どれだけアクティブラーニング的なことをしたって、生徒ひとり一人についてどれだけ把握し、理解し、信頼関係を築けているかと言われれば怪しい。

大福帳でオンライン・カンファレンス的なことをしてはいるものの、書くことをめぐる権力関係は拭い去ることができず、書かれる内容は「教師」と「生徒」のそれであることも。

www.yacchaesensei.com

昨日の書評記事に書いた、アトウェルが示す2人の「自分」のうち、後者の「一人の人間としての自分」を教員が示したいと思っていても、

生徒が「生徒」として書いてきたコメントに対して、「教師」としてコメントを返さざるを得ないシーンが多い。(単純に量が多くて「一人の人間として」コメントできない問題もあるけれど)

で、その状況を前にして、「1対1で、人間対人間として関わろうとする機会を確保できているか、担保するための授業デザインになっているか?」と言われればYESとは言い切れないもどかしさがこみ上げる。

今年度について言えば、大福帳だって【任意】でやっているのだから。 

教員という仕事のこの上ない幸せなことは、一人の人間として生徒に関わらせてもらえること。それを自ら手放してどうする、という気分になってきた。笑

おわりに

第1章の書評記事。訳者2人のブログ・原著読まれた先生のブログも掲載しています。

www.yacchaesensei.com

アトウェルの一人一人をいかす学びのデザインは、国語の教員じゃなくたって学ぶことは大いにあるだろうけど、理系科目を担当されている先生がこれを読んでどんなことを考えるのか知りたい、そんな第2章の終わり。

第3章からは「ワークショップ開始」です。ワクワク!

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

  • 作者: ナンシー・アトウェル,小坂敦子,澤田英輔,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 三省堂
  • 発売日: 2018/07/21
  • メディア: 単行本
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