やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

【書評】『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』⑤〜読むことをどう鍛える?〜

イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室

今日は、第5章「読み手を育てるミニ・レッスン」の書評です。旅行に読書にいろいろと外に出ていたら書評の間隔があいてしまいました。

もくじ

ミニ・レッスンとは(前回記事より抜粋)

※前回の書評記事をご覧になった方は、同じ内容です!ミニ・レッスンは書く授業、読む授業の両方で行われるもののため、復習の意で再掲します。必要ない方は読み飛ばしてください。

「どうやって書くのか&読むのか」について先達のアドバイスを生徒に伝える場のこと。

アトウェルのワークショップ授業では、毎回このミニ・レッスンが最初に組まれます。

よいミニ・レッスンは、 実践的で、生徒たちが取り組んでいることと関連していて、理解しやすく、影響や効果が広範囲に及びます。ミニ・レッスンはクラスの生徒全員と会話する場です。そこで、書くことにおける問題、確実にうまくいく解決策、前に進めるような助言などを話します。また、ミニ・レッスンは。生徒一人ひとりが自分の書きたいことを見つけて、それに取り組むことを大切にしながら、私がこれまでに国語教師として得てきた知識を譲り渡す機会でもあります。(太字は筆者)

このミニ・レッスンは、全員に同じことを教える場です。相当な工夫を継続的に重ねていかないと、効果は最大化されません。

だからこそ、教師として燃える場でもある。

場の価値の最大化」をしつづけるアトウェルの姿勢は、僭越ですが、大変共感を覚えます。ワークショップ授業をしていなくても、全ての胸に留めるべき姿勢です。そうでなければ、個別化されたウェブ講義と問題集に取って代わらr

学校サイトの活用!(ここから第5章の内容)

アトウェルの授業で、生徒たちは自分で読んだ本に対し、1~10+「最高!」の11段階で自己評価をつけます。

その自己評価は学期の終わりの振り返りに主に役立っている、とのことですが、同時にそれは学校外の読者のためにもなっています。

毎週「何千ものアクセス」があるそうですが、実際に学びの成果を教室内だけで完結させず社会に発表する、問いを投げかけるということで生徒の学びはもう一段深くなりますね。

主体的・対話的で「深い」学びに至らせるためのしかけでもあります。

思い出す映画

軽井沢の風越学園のイベントで観たドキュメンタリー映画"Most Likely to Succeed"でも、そのような仕掛け(というかそれが学びの本体)がなされていました。

www.futureedu.tokyo

medium.com

地域に学びの成果を発表する展覧会によって、生徒の学びのモチベーションは相当に高められ、夢中になって学ぶ。探究による学びの”強さ””作る”ことの意義を感じさせてくれた映画です。おすすめ。

タイトル通りだけど、理論を学べるこの本もよかった。

作ることで学ぶ ―Makerを育てる新しい教育のメソッド (Make:Japan Books)

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  • 作者: Sylvia Libow Martinez,Gary Stager,阿部和広,酒匂寛
  • 出版社/メーカー: オライリージャパン
  • 発売日: 2015/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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熟達した読み手になるには?

興味をもって、自分のレベルで無理なく読める本を大量に読む経験が必要だということです。

このことは分かっているけれど、学校図書館の限界も感じさせる指摘。アトウェルは自らの教室に本棚と自ら選んだ本を置いているけれど、日本の学校ではまず難しい。

合わない本を読むことをやめるときの自分なりの基準を生徒たちは作るそうですが、社会だと「自分の意見と違うから読まない」という理由で読むことをやめたい!と生徒が言ってきた時、どうすればいいか迷いますね。

もちろん一人ひとりの状況や本の内容によるんだけど、「自分の意見と違うから読まない」という認識を生徒がしないまま、別の理屈をつけて読むことをやめてしまいそう、、と思ってしまいます。(特に社会科ね)

うーん。文体が合わない、とか、筆者が偏っている、とか。その一冊一冊を読むことをやめる理由を「チェック」しようとしてしまう発想が、そもそもダメか。

だから、「他の本に移るまでに、最大で何ページ読む」というような定量的な理由の方が社会科学の場合はなじみやすいかもしれません。

読むときの頭の使い方の説明もしっかりアトウェルはしています。スキーマについても、こちらの本を読んでいたので、復習として理解できました。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

喜びを味わう読み方と情報を得る読み方

アトウェルは、歴史の授業も教えています。(!)

だから、「読む本のジャンルによって理解の仕方が異なることを生徒が学べるようにする」ことも彼女の責任であると言います。

そこで生徒たちに伝えることがp219~220に書いてあるのだけど、これは私も大学でみっちり鍛えられたので概ね同意するし、むしろそれよりも丁寧に、深く読むことを求めているアトウェルの教師としての厳しさを感じさせる。

その厳しい要件をいちいちチェックしない、というところに、自律的な読み手を育てたいという願いが込められていることも感じます。

そのための手順がバッチリ整っています。その手順の綿密さに圧倒されます。どこまで生徒の中にその手順が染み込んでいるかは気になるところ。

社会科必読〜新聞記事を使う授業〜

客観的に見ることなくして社会科学にはなり得ない、という原点から、社会の姿を色眼鏡を外して眺めて見ることで社会認識は作られていく。

その社会科が扱う読むべき材料として、新聞記事は大きな役割を果たします。が、その新聞記事をどう使って、どう生徒が学んでいるかの説明が少なかったのはとても残念。

アトウェルの語り口も、具体性のトーンがちょっと落ちて、生徒にこうなってほしい、という願いを続けて語っているあたりは、社会科教員としては物足りなく読んでしまいました。

ただ、あすこまさんの記事と為田さんの記事があり、かなり類似の実践はできると思うので、紹介させていただきます。「書く」授業ですが、非常に参考になります。

askoma.info

blog.ict-in-education.jp

お二方の記事をもとに授業実践した反省点を記事にしなきゃな…

夏休み前のHRでやればよかったこと!!

もちろん、ここだけを切り取っては意味がないのだけれど、夏休み前最後のHRはつまらない書類の配布と連絡に終わるのではなく、30分でいいから図書館に全員で行って、3冊は借りていこう!と言えばよかったと後悔しています。

なぜかというと、アトウェルがこう言っているから(受け売り)

長期休暇中に読書をしない生徒は、読書をしない期間分か、それ以上の読む力を失ってしまうのです。

アトウェルは、夏休みも平常時の延長として捉えているし、生涯にわたって書を愛する読み手を育てたい、という強烈な願いがあるから、こんな切り取り指示をしたってダメなのだけど、しないよりはした方がよかったかな、と今更後悔。

口頭で「本借りていきなよ!」とは何度も言っているけれど、言ったら伝わる、そんなわけがない。生徒同士が本に囲まれ、ちょっとおしゃべりしながら書架で時間を過ごす経験は、ただ1人で借りに行くのとは違う意味がある。

アトウェルは長期休暇中に生徒が本を読むためのしかけをしっかりとしています。これ、国語だけじゃなくて全教科の教員が知っておくべきことでしょう。担任の教科によって生徒の成長が左右されてしまうとすれば、(それは教育の拭い去れない宿命なのだけれど)もったいない。

教員のなやみ。。

もうこの記事も終わるけれど、読みながらどうすれば自分の授業に活かせるか、はもちろんだけど、それ以上にどうすればこういう価値観を教員が共有できるか、ということばかりに頭がいってしまう。

カリキュラム再編が教科の単位の奪い合いになるのは本当に不毛。

アトウェルはp220で「複数教科を共に学ぶような統合的カリキュラムはあまり好きではない」と言っているけれど、私個人としては、教科の垣根を一旦取りはらって、コンピテンシーベースで教育を議論したい。

ただ、教員=コンテンツのプチ専門家という意識があると、この議論すら「なんでそんなこと議論すんの?」ってことになっちゃう…

この1冊だけは教員みんなで夏に読んで議論しましょー!くらいのテンションで仕事できたらいいな、と思う私は仕事バカなのか。アトウェルの周りの教員の認識・語りも聞いてみたい。

おわりに〜気になったところハイライト〜

①さっきの「複数教科を共に学ぶような統合的カリキュラムはあまり好きではない」について、その理由を推測して訳注でしっかりフォローしてくれていて感動しました…1冊で2度学べるよ…!

②全然余談だけど、p231の最後の「哲学的」という言葉は「形而上学的」にしてほしかったな(笑)哲学の意義が歪められちゃっている、と苫野先生がいうのはこういう風に「哲学」が使われてしまうから。

③p238「ワークショップは生徒の若い力を引き出します」教育の語源はeduce(引き出す)です。まさにこういう授業が、教育であると痛感しています。何度痛感すればいいかわからないくらいこの本でそう思っている。