今日は、第6章「一人ひとりの書き手を教える」と第7章「一人ひとりの読み手を教える」の2章分の書評です。味わいたかったので1章ずつ書いてきましたが、
この2章はアトウェルの授業の真髄と言ってもいい、「生徒一人ひとりとの関わりをどう担保するか?」を中心に語られていたので、一つにまとめます。
もくじ
- 社会科らしいアンケートとは?
- 「社会を見る目」を育てるって?
- この質問項目は、地味にスゴイ
- 今年度は封印しているコレを復活させるか?
- 生徒のこだわりにどう向き合う?
- 気になった生徒とのやりとり①ナサニエル
- 気になった生徒とのやりとり②ケイト
- 気になった生徒とのやりとり③ウォレス
- 過去のレター・エッセイを分析する
- おわりに〜大阪市長の発言〜
社会科らしいアンケートとは?
アトウェルの“授業びらき”については、第3章の書評記事でもまとめましたが、そこで行われるアンケートは自分の授業でも応用したい。
今も自分はアンケートをしているけれど、本人の教育経験・部活動・趣味・進路希望を聞く程度で、教科に即した内容をきくものにはなっていない。
※今これを読んでくださってる先生方がアンケートで生徒に何を聞いているのか気になります。
アトウェルのアンケートは書き手・読み手として生徒に質問を投げかけ続けていて、個人よりも教科に即した質問項目になっている。
これを見て、じゃあ自分が生徒に何を聞くか?と言われると、社会科という「目に見えるスキル」とは言い難い力を育てようとする科目ゆえか、一筋縄ではいかない。
「社会を見る目」を育てるって?
どのような教科観、授業観に立とうとも、社会科の目標の最大公約数は、学習者の「社会の見方・考え方」を育てることにある。http://www.jfecr.or.jp/cms/zaidan/publication/pub-data/kiyou/h24_41/1-07.pdf
この表にしたがってみれば、関心をもった社会問題とか、ニュースどれくらい見てるか、とか、常にこのことと関連させて見てる!というマイテーマ、そういうことをきいてみるのもありですかね。
ただ、結局なんのために聞くかというと、その後のワークショップのために聞くのだから、アンケートだけを磨いたところであまり意味がない。逆算型の授業設計がいかに言うは易し、かを痛感します。
この質問項目は、地味にスゴイ
そのアンケートの中でこういう質問があった。
他の人からどのようなフィードバックがあれば、書き手として成長できますか?
これ、いかにも普通のことのように聞いているけれど、これからの授業はフィードバックを得られる授業である、ということが 暗示されていて、そのことは生徒の心理に肯定的な効果はもたらすと思う。
例えばこのブログでもそう、Twitterでもなんでもそうだが、他者から反応がある、しかもこの授業の場合は明確な教える技を持つ教師・生徒同士によるフィードバックがもらえるのだ。
「フィードバックすべきなのはわかっているし、大福帳でその仕組みは作っているけど、量的に無理!」となっている自分にとっては、恒常的なフィードバックがもらえる授業に対して、もはや羨望になってしまっている。
↑の実践が今の限界です。悔しいけど。40人、2単位の授業の限界。家で風呂入りながら音声入力で生徒に返信しているくらいには量に殺されそうになっている。
打開するためには、ピアカンファレンスをいかに機能させるか?、に知恵を絞るしかないのだろうか???悩ましい。
今年度は封印しているコレを復活させるか?
質問づくり(QFT)は変わらずやることが多いのだけれど、その質問の生かし方と振り返りはこの連載記事にまとめたほどじっくり行えていない。
p248のカンファレンスのガイドラインを読むと、「30分で少なくとも12人」の生徒とアトウェルは話をしている。授業中にだ。一人当たり、「30秒〜3分30秒」を費やしているが、質はもう後から付いてくると信じて、この量的指標をそっくり真似してみようかな、とも思う。
生徒が取り組むものは、上の記事にある振り返りシートでも、今年度やってみた新聞記事投稿の授業でもよい。法学のレポートも書かせているからそれでもよい。ピアレビューと個人カンファレンスを組み合わせてなんとかできないかな。
p290~で紹介されるレターエッセイ的にやってみるのもありか…ただこれも教師とやりとりをした上で次にやりとりする生徒を選ぶわけだから、そこに至るまでの教員の労力は計り知れない。
読んだ本をもとに自分の授業にどういかすか、具体的に考えず読んで満足ではいけない、というのはビジネスでも鍛えられました。私にとって『イン・ザ・ミドル』はお楽しみの読書ではない(楽しいんだけど)。
生徒のこだわりにどう向き合う?
生徒に対するアトウェルの見方・接し方は、つくづく大村はまを思い出させるのだけど、文学表現ゆえ、生徒がこだわりをもって書いたものがアトウェルの方針とぶつかったらどうするの?という疑問を持った。
それに対してp273~274で言及がありました。
ほとんどの場合、生徒は私の助言を受け入れます。通常、私の助言は信頼でき、そのおかげで作品がよくなるとわかっているからです。しかし、私はクラス全員に「もし、私が余計なことを言ったら、そうだと言ってね」と伝えています。書き手として自分で書く題材や目的を選んで創作する生徒たちには、自分が何を伝えようとしているのかを説明し、主張するだけの力もついているのですから。
たぶん、この言葉のポイントは生徒がアトウェルに「ナンシー、その指摘はありがたいけど余計だよ。なぜなら〜〜」と言える関係性があること、でしょう。
日本の多くの授業で(特に高校)、この教員の発言を額面通り受け取って、「空気を読まずに」自分のこだわり・意志を教員に伝える生徒がどれくらいいるか?ということです。
場による授業の意味、face to faceの授業を年間で行うことの意味は、この関係性作りにあると言っても過言じゃないよなあ。
気になった生徒とのやりとり①ナサニエル
リーディング・ワークショップにおける生徒とアトウェルのやりとりがなんと18人分も収録されているのだが、その中でいくつか気になったやりとりをまとめます。
①p284・10番目のナサニエルとのやりとりは、読んでいた本を持ってくることを忘れ、別の本を読み始めていた生徒に対して、1冊の本に浸るために多読をやめるよう勧めるシーン。忘れてしまった生徒が「でも昨晩ちゃんと読んだよ」と言った後に、どれくらい読んだか?は聞いてあげたい。
しかも、同時多読が NG、と示すことは、生徒の私生活における読む権利に対して不当に干渉しているように聞こえる。何をどう読み進めてもいいじゃないか、読むことは授業だけで掌握されるものではない、と思ってしまうのはうがった見方?
結局、ナサニエルは新たな本を読むことを止めさせられ、アトウェルが指示した短編を読むことになっている。これ、どうなんでしょう。最後に生徒は「わかった。ごめんなさい。」と言ってるけど、一番違和感をもったカンファレンスでした…
これをやると、「私的な読書」と「授業の読書」が分かれてしまいそう。
気になった生徒とのやりとり②ケイト
②p285・12番目のケイトとのやりとりは、社会科の教員からすると、「えっ」と思わされる。イランの政治に対するケイトの価値観を固定化する方向に声かけしている(ように聞こえる)からだ。読む手を進めるためにはそれでいいのかもしれないけど、、というのは私が社会科だから?
ケイトの次のワークショップの様子を追跡したり、質問紙調査をしてみたい、と思ってしまいました。
気になった生徒とのやりとり③ウォレス
③p287~・17番目のウォレスとのやりとりは、圧巻です。
アトウェル自身が優れた読み手であり、教師であることを思い知らされます。笑
ここにとどまらずすごいのは、アトウェルが教室の生徒が読んでいる1冊1冊の本に対して、内容・文学的な考察含めて様々な引きだしを頭の中にもっていること。
過去のレター・エッセイを分析する
昨年度の生徒たちのつくった優れたレターエッセイを分析させ、特徴を名付ける、というプロセスの進め方・効果は自分の授業でも割と早めに応用して導入できそう。
自分の授業でも法学レポートを毎年書かせており、昨年度の先輩の優秀作は展示・随時閲覧可にしてある。これを授業として組み込む。
アトウェルのこうした生徒による分析は、それ自体が「学びとしての評価」になっていて、それゆえ第8章の評価の仕方につながっていきますね。
このプロセス、私の授業設計だとどうしてもかっ飛ばしてしまっていること。ぐぬぬ。
おわりに〜大阪市長の発言〜
大阪市長が学力テストの結果が芳しくなかったことに対して記者会見で恫喝・成果報酬制をちらつかせていたけど、吉村市長も『イン・ザ・ミドル』読んでください。
「できない」から予算を減らす→1教員がもつ生徒数が増える+非常勤講師には継続的かつ時間外の生徒フォローを頼めない→生徒一人ひとりの学びに寄り添うことが難しくなる…→一人ひとりにあったレベル・方法で学習を進められない→テストの結果がふるわない→
という悪循環が見えるのは私だけでしょうか…。