やり過ごせるアクティブラーニング
今学期もディスカッションをしています。
が、なんとなく“冷めた大人のディスカッション”を見ている気持ちになることがある。
生徒同士の活動を中核にすえた授業で痛感したこと。
— やっちゃえ先生@倫理政経 (@Yacchaee) 2018年9月10日
「乗ってやりゃ満足するなら乗ってやるよ」
と生徒が"悪意"を持てば、いくらでもアクティブラーニング的な授業は成り立ってしまう。
教員が成り立ったと思えば成り立ってしまう。
では、何が必要か?
いわゆる「アクティブラーニング」が使われなくなったのは、こうした要因があるからだと思います。
つまり、「主体性」と「深さ」のないディスカッションも“アクティブラーニング”として誤解されてしまう可能性を危惧したから。
だから、「主体的・対話的で深い学び」という表記になったのでしょう。
では最近の自分の授業はどうなのか?
夢中になってしまう仕掛け
これが足りないからそうなってしまうのだろうか?
倫理や政治経済という科目で、「楽しくないかもしれないけれど見なくてはいけないものを見ようとする」授業に偏りがちだからか?
なんだか去年の授業よりも授業デザインがうまくできていないような気がしてならない。去年よりも時間を取れていないこともあるけれど、
- 自分ごととしてとらえられる
- 状況に感情移入できる
そういう内容なら、生徒は夢中になって(いるように見える)ディスカッションをする。
「夢中になっている=良い」ではないけれど、少なくとも授業を有意義なものとしているように見える。
でも同時に、生徒が有意義だと思っていれば良い授業か?というとそうでもない。
「今日の授業で生徒がどのような変化をするのか?」ということこそ先にあって、生徒の満足度はそのあとに来るのかもしれない。うーん、今日はなんだか考えられない。
深く考える頭のメモリが残っていない
40人いたら40人が腰を据えて話し合っていないと気が済まないのは、教員のエゴかもしれない。
よく、こういう状況に対して「生徒の学ぶスタイルは1人1人違うのだから、ディスカッションが不向きな生徒もいて、そのことは悲観すべきことではない」という言説がある。
それを「学びの個別化」として良いのか?という疑問は消えない。
価値観を交流させるためだけなら、ディスカッションでなくても紙に書いて回していけばよい。アセスメントもなしに、なんとなく対話させるだけなら、簡単なんだよな。
なぜディスカッションがうまくいかないか?
生徒に聞いて、じっくりやりたい。
1コマ1コマの中で、生徒と教員が対話しながら「場の価値の最大化」を図る授業になっているかというと怪しい。
岩瀬先生の『みんなのきょうしつ』を読んで、小学校の担任が授業でできることの幅広さと、児童1人への関わりの深さや観察する機会の多さを見て、なんだかがっくりきているのかもしれない。
そして隣の芝は青いのかもしれない。
受験生の必修科目、でも多くが受験に必要としない科目。
— やっちゃえ先生@倫理政経 (@Yacchaee) 2018年9月12日
そんな科目をクラス単位で必死こいて運営し、大福帳を死ぬ気で返信し何とかやってる次の時間、
選択科目を10数人で、一人一人のペースで見とりながら対話的に学習が進む授業を見て、えも言われぬ気持ちになったのが今日のハイライト。切ない。笑
なんだか今日は会議が長すぎて思考も散漫です。備忘録的に残しておくための記事。
生徒の大福帳を読んでから、もう少し考えよう。生徒をみて、対話してぐるぐる悩もう。
おわりに〜思い返す!〜
今思い返したけれど、
今日は役割を与えた方が対話が機能するチームもあれば、そうではない自分たちの意見でディスカッションを進められるチームもあった。
この見極めをして、そのチームにあった進め方をしてよい、と提案すればよかったか?
今やり直せるなら、これがベストだったかな。
(それができたら、学びの協働化をしつつ個別化を図れていることになるのか?)