哲学に対する「愛」が伝わる、読み継がれる「愛」の書。
愛の本質をがっちり掴むだけでなく、哲学って答えのない問いをぐるぐる考えるだけの学問ではない、ということを示す良質な1冊です。
著者20年の思索の結論、と帯にもありますが、構想を数年前に伺い、本当に本当に楽しみにしていた1冊だったので、読み終わるのが惜しいと思いつつ、突っ込みを入れつつ、じっくり味わいました。
なお、冒頭でいきなり
「かつて、私は全人類を愛していた。「人類愛」。」
という人類愛教祖の黒歴史(すみません)をぶっ放しているのは最高にロックでした!(詳しくは『子供の頃から哲学者』が色々な意味で楽しい笑)
以下、言葉の紹介というより、読んで考えたこと等をざっくばらんに記しておきます。
虚構的ロマン
はじめに、でニーチェが引用されていて、そこでは簡単にいうなら
(否定したい)「A」があるなら、その反対の「B」もまたあるに違いない!Aを脱却し、Bを目指そう!
という考え方が「虚構的ロマン」として紹介されています。
この考えを自覚するところから愛の本質を探る記述が始まるのですが、結構思い当たる節があります。笑
生徒が陥りやすい“ロマン”
というのは、教員をしていると、生徒の中には受験のストレスから
「受験とか学歴社会って本当にイヤだ、学歴のない社会があるのに日本は時代遅れな受験をさせている、本当に終わっている」みたいな言説に触れることがあるからです。
また、
生きづらさを抱えている生徒の中にも、同じように(苦しみを感じる)Aとは真逆の(素晴らしい)Bという世界があり、そこに至れないが故に自分や他者を責めたりするようなシーンも見てきました。
教員としては、聴きすぎることってほとんどないので、聴きすぎるくらい話を聴くに限るのですが、哲学を一緒にやりたいなと思ったりしますね。
というのは、哲学は、自分を自由にしてくれるからです。
日本でも言葉として定着しつつある「リベラルアーツ」で哲学が必須として学ばれて来たのは、先人たちが考え抜いた思想の系譜と、哲学するという営みによって、自分の思いこみを外していくことができるから、だと感じます。
苫野先生の本は、どんな内容でもそういう哲学の営みの音色を通底に感じます。
生徒と「愛」を語る
高校生として、生徒たちは恋・愛を自分ごととして感じる生徒も増えてきます。
恋バナや高校生恋愛番組できゃっきゃするレベルから、 真剣な恋愛もです。
倫理の授業で、様々な概念とかテーマを扱う学びを展開している中で、生徒の方が面白がって考えてくれるテーマの1つが「愛」ですね。
で、その愛の本質をつかんでいくために使えそうな引用・問い(28)がありました。
- 自己犠牲的な愛など本当は存在しないのではないか?
- 私の愛は、本当はエゴイズムでいっぱいなのではないか?
こういう問いから、生徒の本質観取をに繋げてみたいと感じました。
まさに10代から20代へ、こどもから大人へ、という時期に、「愛」を教え込まれるのではなく、実感として提出し合う場が持てたらなあと思ったりするのです。そういう場が、探求の共同体になったりするのではないかと。
- 作者: マシュー・リップマン,河野哲也,土屋陽介,村瀬智之
- 出版社/メーカー: 玉川大学出版部
- 発売日: 2014/06/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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もちろん、愛はセンシティブなテーマでもあるので、注意は必要ですが。
生徒の行う本質観取とその支援については、そろそろ実践報告レベルでも書いて残していかないとな、と感じています。IBのTOKで扱われる「概念化された問い」と本質観取を関連させた学習活動をデザインしたいのだけど前者の勉強中です。
類似概念を多く出すと…
これは少し教科の専門的な話になりますが、倫理の授業では「本質観取」を生徒と行なっていることもあって、「どうすればより納得度の高い本質観取ができるのか?」とその指導のコツをいつも探しています。
この本を読んで、感じたコツの仮説が「類似概念を多く出す」こと。
「愛」の本質を明らかにするために、実際に苫野先生が出していた類似概念を列挙してみると、
愛、好き、愛着、執着、憎悪、友情、友愛、一体感、尊重、性愛、恋愛、恋、芸術、自己愛、切なさ、嫉妬、自己犠牲、立派、共感、ケア、愛情
と実に20以上あります!
普段生徒には、類似概念の目安として4~5と伝えていたけれど、もう少し意図的に増やしてみようと思います。
生徒の本質観取を支援する仮説
特に、一旦本質観取が終わった時に、類似概念との差異を確認して、自分たちの掴んだ本質が、その言葉でしか言い表せないと思うような本質をつかめているか、を確かめられるようになってほしいですね。
とにかく、
類似概念を増やす(見つける)手助けをすれば、生徒の本質観取は自走感を持って捗るのではないか、という仮説が自分の中でできました。大きな収穫。
なお、本質観取の方法については、苫野先生のこちらの本をご参照ください。
苫野先生の読書量・執筆術!?
話があっちこっちへ行きますが、上に書いた類似概念と「愛」の違いを明らかにするために、苫野先生は様々な引用をしてくれるのだけれど、
時代を超えた引用はもちろん、哲学者ではなく深い人間洞察を行う作家を持ってきたりと、そのバリエーションにも驚かされます。
フランクルとかキケロとか、そこでその引用を持ってくるのか〜すごいな、、といつも思っているのですが、相当の原著を読み切ってかつ引用しようと思う部分をどうやって関連させて1冊の本にするのか、一度脳の動きを追体験して見たいと思うほどです。
師匠の竹田青嗣先生との対談では、
『世界の名著』シリーズっていうのがあるんですが、この中の哲学書は、まずは基本文献だから1年でほぼ全部読め、と。それで、かなり詳細な、平均3万字くらい、時に5万字を超えるレジュメを毎週1~2冊作って。そしてそれをもって、竹田先生と議論する。
そんなのが週に1~2回あってですね。このノルマを達成できなかったら破門されるんですよ(笑)http://timesphilosophy.blogspot.com/2014/08/blog-post.html
と語られているので、まさか読んだものを全部記憶されている訳ではないと思いますが、類似概念との差異を明確化するための引用のチョイス、どう行なわれているのかが読みながら気になってしまいました。笑
教員としての「愛」
に、「専心没頭」と「動機の転移」(184)を見ることがある、というのは非常に納得感のある記述でした。
前任校でまさにそういう愛を体現している先生が目の前にいて、「ああなりたいけどなれない」と思わされていたものです。
むしろ、「なれないけれど、そういう素晴らしい先生を支える教員でありたい」と思っていたし、教員をいかす集団のマネジメントにもとても興味があります。
ただ、読んでいて、「愛情」と「愛」の境目の認定は難しいと感じますね。両方ありそうで、今どっち?と自分で認識することも難しそうな感覚。
愛される側の「承認されてきた経験」の大きさも、学校現場に身を置くものなら多くの人が感じるでしょう。
幼少期にこれを持っていないと、教科担任制で生徒にじっくり向き合う時間が減っていく高校ではなかなか学校での修復は難しいなと思います。
学校は、愛情を注ぎつつも、愛とはどこかで自覚的に一線を引いている場、であるかのような感覚を持ちました。
ベストセンテンス!
長くなって来たので最後に、私が最も印象に残った文章を。
「愛」はその“理念性”のゆえに、わたしたちに容易にその「本体」を捏造させる(188)。
これは思わず「おおお、うまい!」と唸ってしまいました。
同時に、「理念性」という言葉のチョイスを生徒たちができるようになるためには何が必要で、倫理の教員としてどんな働きかけができるのか、有用なのか、と考えてしまいますね。
幼い子供が愛を知り得ないこと、神への愛が”ふつうに”成り立つこと、の説明ができるようになる、印象的な文章でした。
他にも終盤は紹介したい文章のオンパレードでしたね…無条件の愛はありえるのか、愛は意志しうるのか。面白かった。ああ面白かった。
おわりに
愛の本質は、「存在意味の合一」と「絶対的分離尊重」の弁証法。
哲学とはこういう学問だよ、こういう考え方をするんだよ、だから皆にその有用性が伝わってほしい!というところまで迫ってくれるから、苫野先生の本はやめられません。
哲学に対する「愛」が伝わる、読み継がれる「愛」の書。皆さんも是非!