流行のさらっと読める新書、とは行かないかもしれない。
でも、日本の教育で語られる言葉に、特有の「内実」があること。データと引用を豊富に用いてその「内実」を示し、今の"教育改革"がむしろ多くの問題を生み出している可能性を示唆する1冊でした。
衝撃的な第1章
教育を社会における1事象として捉える教育社会学らしさが随所に見られる1冊ですが、第1章からその威力は全開でした。
例えば、OECDが2011-2012年にかけて実施した「国際成人力(Adult Competencies)調査」では、読み書き計算・問題解決などの「一般的な知的スキル」は世界の中で飛び抜けて高水準かつ国内格差も小さいことが示されます。
が、一方で、その高い水準にも関わらず、スキルの高さが不平等是正としてあまり機能しておらず、世界と比較して人々は低賃金に甘んじているとの分析。
実際に人々が自分のスキルの過不足状況をどうとらえているか、を示した下のグラフ(p11より引用)はパンチが効いてますよね…
他にもありますが、こうしたデータから浮かび上がるのは、
「汎用性の高い一般的なスキルについては、「世界一」と言ってよいほど高水準である一方で、具体的・個別的な知識やスキルは不足している」
「日本の賃金、経済、不平等と一般的スキルの無関係さの背後には、こうした日本のスキルの極端さや偏りがあるのではないか」
という事実と仮説です。
他にも、日本の15歳、18歳の意識調査などを紹介し、彼らの濃厚な不安やネガティブな思考をデータで紹介した上で、
第2章以降でこの「異常な」状況が①なぜ&どのように生まれ、②どのように解決していくべきか、が述べられます。
汎用的スキルはもう十分?
先ほど紹介したように、汎用性の高い一般的なスキルがもう十分育成されていると言ってもいい現状があるとするならば、濃厚な不安やネガティブさを解消し、一人ひとりの「これだ!」と思えることを共に探し深めていくような、序列化のための評価に堕することのないような教育活動を行わなければいけないと感じます。
そう考えると、探究講座を担当していることも含め個人的に探究学習の必要性・意義は感じてしまいますが、その探究学習すらも「序列化のための」「受験のための」という意識が強く働いてしまっているのも事実です。
目的的に何かをさせることを強いる学校教育ではあるけれど、なるべく、そこに生徒の選択や、意思決定が反映されるような授業を作っていくのが教員の役割でしょう。
その点では、国語科になるけれど、『イン・ザ・ミドル』で示されるRW/WWなどのワークショップ実践は非常に参考になります。
本書の特徴でもある第2章
「言葉の磁場」と題された第2章は本書を際立たせる章でした。
多くの紙面を「メリトクラシー」に割き、「能力主義」と訳されることの多いこの言葉が、「日本の異質性」を覆い隠し、あたかもそれが普遍的なものだと誤認させる装置として機能していることを指摘します。
p46のこの図式を用いてイギリスと日本の比較をしていたのは面白かったですね。日本のメリトクラシーは本来の定義とは少しずれた、「日本的メリトクラシー」とでも言える「言葉の磁場」を感じました。詳しくはp55で。
その結果、日本の「能力主義」は海外のそれとは少し異なるわけです。
日本の能力主義は、属性によって左右されていようがいまいが、あるいは公的に証明されていようがいまいが、とにかく「能力」がある者が勝つ、あるいは誰かが勝ち、誰かが負ける理由を「能力」という言葉で説明する。(中略)このような「能力主義」のもとでは、社会の現状が公正かどうかを批判的に捉える視線はきわめて弱体化する。なぜなら、結局、何もかも「能力」で決まる(べき)と考えられており、そして「能力」は、誰かが勝ったあとでその誰かに周囲が与える称号のようなものだからだ (47)
教育社会学を、実践の現場に。
こうした指摘に唸るところが多かったのだけど、個人的には特にこの章を読んでいて、教育社会学という分野がより教育実践の現場で重んじられてほしいと改めて感じたところ。
本田由紀先生の『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)面白い。データや引用に基づき日本の教育の「評価史」を紐解く。松岡先生の『教育格差』を思わせる。「能力・資質・態度」という3つの魔法の言葉の弊害を指摘する仮説を読むと教職課程に教育社会学は必須だと実感。https://t.co/7IIz3Cj62j pic.twitter.com/d6uDGQtUVw
— やっちゃえ@2つのPBL (@Yacchaee) 2020年3月22日
というのも、どうしても教員は、学校での成功体験、学校は楽しく「良い」ものとして人生で機能してきた人間が多くなりがちです。
それは悪いことではないのだけれど、教育社会学は、教育がどのようなものから影響を受けているか、社会の一事象として捉え、学校や教育を相対化する視点をもたらしてくれます。
昨年の新書大賞の3位に選ばれた松岡先生の『教育格差』も暑苦しい書評を書いてしまいましたが、本当にオススメ。
能力・態度・資質を疑う
第3〜6章では、教育史の観点から日本社会と教育の変化を辿り直すことで、第1,2章で紹介した仮説を裏付けていきます。
読みながら終始、小針先生のこちらの本を思い出していました。
遅ればせながら小針誠『アクティブラーニング 学校教育の理想と現実』読了。なかなか良いです。宇野重規先生の「守るべきものは守る。しかし、変えるべきものは変えていく」ことを保守と呼ぶなら、まさにALの正当な保守本。溝上先生から右フック飛んで来そうだけど。笑 https://t.co/jwee2ZQNTd pic.twitter.com/UL2oIEQGpg
— やっちゃえ@2つのPBL (@Yacchaee) 2018年11月27日
学力観の変遷は本書や小針先生の丁寧な分析に任せますが、いずれも強調していた点は、いま教育現場で「まあそうだよね」と受け止められている「資質・能力・態度」という言葉にあえて挑んでいくことです。
なお、ここまでの分析はp202-208にしっかりまとめられているので、読みながら論の行方を見失いそうなときに助けてくれます。
あと、時折挟まれるこういう図式(134)が非常に効果的。
vs. 奈須正裕?
で、そのような「資質・能力・態度」という言葉にあえて挑んでいく見方は学校教育における実践界隈でよく読まれている?奈須先生のような「資質・能力」の捉え方には一石を投じるわけです。
その捉え方は、「資質・能力」の育成は、この時代に求められる「学力」観に適うものであり、カリキュラムと一体となって各校で特色ある教育活動を編成していく上で目標として設定する価値のあるもの、というある種の(素朴な)捉え方です。
↑の本も、現場にいる身としては非常に分かりやすく膝を打つことが多いのですが、本書はそのような捉え方とは一線を画しています。
つまり、日本の独自の意味内容が含まれた「資質・能力・態度」という言葉の使用によって、その素朴な捉え方は捻じ曲げられている、と指摘します。このあたりは本書の特に興味深い点であり、教育社会学の醍醐味を感じる面白い指摘でした。p167あたりの解説をぜひご覧ください。
終章・未来への提案
ここまでの議論を整理し、最後に「じゃあどうすればいいの?」にしっかり暫定解を出し切る(苦い良薬を吐きながら笑)のも本書の魅力。教育は誰しも一家言語れるので、見えない読者に自分を投げ出して提案するのは大変だと思うけれど、さすが一線級の研究者です。
その過程で示されるデータは最後までパンチが効いてます。例えば
- 経済階層ー校内成績
- 校内成績ークラス内影響力
- クラス内影響力ー「道徳の授業内容が好き」
- 経済階層ークラス内影響力
のすべてに正の相関がみられる上に、
校内成績の良い生徒はルール遵守の意識が強く、
クラス内影響力の強い生徒・道徳の授業が好きな生徒は、愛国心、ルール遵守、上位者への服従、性別役割分業意識のすべての意識が強い(211-212)など。
教員こそ、教育社会学を学ばなければならない。そう言える理由に聞こえます。
具体的な提案はp217-219にまとめられており、その提案と社会の動きが合いそうな状況に対しても、今のままでは表層的なもので終わると一刀両断します。
キーワードは「水平的多様化」。もちろん一筋縄ではいかない日本の状況ですが、こうした現状認識を持つことからしか始まらない、そう思わせてくれました。
おわりに
書評記事を書くと、自分の中にちゃんと本が残っていく感覚があるからやめられないですね。
なお、最後の方に労働市場の話が出てきて、本田先生のご専門に話が入りかけて終わった感じがしたので、 読みやすい新書をぜひどうぞ。
コロナの自粛疲れのように、教育も改革疲れを感じることがありますが、社会に開かれた教育課程、である以上、教育を社会における一事象として捉え直す教育社会学の視座を意識的に取りにいくこと。
その上で、生徒の力を引き出す学びの場を作りたいと思います。再度の休校も視野に入れて、来週のZoom授業の準備をしようかな…