夏の終わり、20冊近く読むことができていかにそれを秋からの実践に取り入れていくかワクワクしてきている(夏休みの終わりを嘆くのは生徒も教員も同じ)。
が、、しかし。
続きを読む教育とは何か?ということを考えたことがあるだろう。古代ギリシャの哲学者・ソクラテスをご存知だろうか?
無知の知を自覚し、対話を通して真理の追求を目指した哲学者だ。(簡単に言いすぎ)
上の絵はあの有名な「ソクラテスの死」。「悪法も法なり」と言ったとか言ってないとかあるが、ただ一つ言えることは彼が不正な判決を受け入れて死を選んだということである。この前NYでホンモノを見ることができテンションが上がった。
教育とは、炎を燃えあがらせることであり、入れ物を埋めることではない。
というのがその考えだ。知者と呼ばれる人であっても「自らを知らない者」と認識する、という彼の人間観がこの言葉にも表れているだろう。
つまり、教員が生徒を「まだ中身の少ない器(入れ物)」とみなし、その入れ物を満たすためにあれこれ教えるのは教育ではない、と言っている。
生徒の中にパチン、と炎を燃え上がらせること。与えるのではなく引き出すこと。これに尽きる。
ホリエモンこと堀江貴文さんは「学び=ハマること」と定義していたが、まさにこれだ。
何故こんな話を最初にしたかというと、まさにこの夏休みに、内なる炎を燃え上がらせ、ハマっている生徒がいるのだ。あまりにすごい、素晴らしい生徒なので少しだけ紹介したい。
具体的には、
・0から憲法や人権のことを理解したいのでオススメ本を教えてくれ、と聞いてくる
→まあここまではたまにある。10冊近く教えておいたら、1ヶ月でほとんど読んでしまった!(素晴らしい!)
そこからが、さらにすごい!
・読んだ後にどうしたらいいか?まで聞いてくる
→ここで裁判傍聴や夏休みを利用したその他の機会を紹介する。
本来なら有志で裁判傍聴に行ったり、授業内で大学の教授を呼んだゲストレクチャーを行いたいが、この生徒は自分でどんどん学ぶので敢えて行動すれば学べるものを紹介した。
すると…
・裁判傍聴に行った感想を伝えてきただけでなく、論点を設定し、先生はどう思いますか?と議論を始める
→恐るべし、ですね。これぞ主体的で対話的な学び。あれ、何処かで聞いたことがある。笑
ちなみに論点は、人工知能が裁判官を行うことはできるか?
読んでくださっているあなたはどうお考えだろうか?
さらに生徒の炎は燃え上がる…
・先生も〇〇に参加しませんか?と誘ってくる
→こちらが紹介した活動に参加し、友人を作り、先生にも参加してほしい、と呼びかけてくるのである。本当に恐れ入る行動力だ。この流れだと、大学生になってからも、というか一生学ぶだろう。この生徒とともに授業を作れていることは教員冥利につきる。
本当にそう思う。自分で学んでいる。大人はその邪魔をしない、ともに走る伴奏者になるだけだ。
こんな生徒が、他にもどんどん出てくるような授業をしなければいけない。そろそろ秋の授業設計を深めなければ、と思わされる読書の夏であった。
「聖徳太子」の名前を知らない人はいないだろう。
同様に「鎖国」と聞いたことがない人もいない、といっていいだろう。
ちょうど半年くらい前に、この2つのことばが、教科書から消える!?という議論が話題になった。
21世紀の歴史教育で現場も実感していることは、歴史用語は「当時の呼び方・発音になるべく正確に」ということだ。
たかがことばかもしれないが、されどことばだ。現地の文化を尊重しようとする態度は、仮にそれが杞憂に終わっても十分に必要なことだろう。
例えば、「イスラム」という言葉も、なるべくアラビア語そのままの「イスラーム」と記すようになっているし、始祖「ムハンマド」も、英語読みの「マホメット」という発音は日本ではほとんどされなくなった(実感がある)。
日本史でいえば、「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」というようにだ。
近代でいえば、あの「リンカーン」も教科書では「リンカン」だったりする。
※この辺の言葉の使い方に対する素朴な疑問は、帝国書院のHPが大変丁寧で参考になる。
先の帝国書院のHPをみると、聖徳太子・鎖国についても、現在もその語用に対する見解が示されている。いずれも、研究成果を反映した、というところが共通だ。
ポイントだけかいつまんで引用しておく。
~聖徳太子~
聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。また、「聖徳」とは厩戸王子の没後におくられた名であること、また「太子」は「皇太子」の意味ですが、厩戸王子存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低い
~鎖国~
そもそも「鎖国」という言葉は、江戸初期から存在した言葉ではなく、江戸後期の蘭学者の志築忠雄が、1801年にオランダ商館医として日本に滞在したケンペルの著書『THE HISTORY OF JAPAN(日本誌)』オランダ語版の付録第6章を翻訳する際に「鎖国」という造語を作ったのがはじまりです。そのため、3代将軍家光の際に、キリシタン禁制政策の一環としていわゆる「鎖国令」が出されますが、「鎖国」という言葉が当時から使われていなかった
ご存知の方も多いだろうが、聖徳太子・鎖国は復活する。
主な理由としては、パブリックコメントにおける呼称変更への批判だ。
その多くが、教えづらい、という現場の声を反映したものだったとされる。
帝国書院のHPにもあるように、聖徳太子そのものが信仰対象になりうる性格から、どうしてもネット上では右翼だ左翼だという議論がみられる。
ここでは、聖徳太子という言葉に、そういった政治的イデオロギーをこめる・取り除く意図はないことを断っておく。
その前提で、愚見を言えば、結果的に聖徳太子の呼称を元に戻すことはありだが、鎖国に関してはどうか、と思っている。
一言でいえば、厩戸皇子より聖徳太子が楽だ。鎖国はイメージしやすい。楽なのだ。
ただし、それでいいのだろうか?
研究の結果、より確からしい知識があるとわかったのに、慣習を重視して「より確からしいもの」ではなく、「より使い慣れたもの」を頼っている。
自分も現場の教員ゆえ、「どうせ厩戸皇子といっても、(聖徳太子)ってあるんだからテストで×にもならないし、入試でも×にならないだろう」なんて思ったりする。
ただし、この自分の易きに流れる思考は、自分が最も警戒しなければいけない。
入試問題に出るから、ではなく、それが学問研究の成果だから尊重するのだ。
憲法に記された、学問の自由、真理探究への自由の結果、行きついた結果は尊重されるべきだと感じている。
国会では、聖徳太子・鎖国が消えることにたいして、「歴史に対する冒涜だ」と言葉が飛んだらしいが、この発言こそが学問に対する冒涜ではないか?と思ってしまう。
鎖国に関して言えば、、まさに「鎖国」があることで教えにくい、のだ。
具体的にいうと、「鎖国と言うけれど実際はオランダや中国や朝鮮との取引や使節の往来が〇〇を窓口にして行われていたんだ、だから鎖国といっても云々」という説明が必要となる。
例えば東大入試問題を扱ったこの記事がわかりやすい。1年前の記事だ。
えっ、「鎖国」中でもこんなに外交が行われていたの!? と驚かれたのではないだろうか。
「鎖国」中でも完全に交流を断っていたわけではない
実は「鎖国」と呼ばれていた17世紀半ばから19世紀半ばにかけてのこの頃、幕府は完全に海外との交流を断っていたわけではなかった。長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていたのだ。この4カ所を「四つの口」体制という。以下にそれぞれ解説しよう。
このように、入試だって学問研究を重要視する(というか大学はそのためにある)。より確かな真理を追究することが大学の使命だ。
繰り返すが、入試問題に出るから、ではなく、それが学問研究の成果だから尊重するのだ。
時宜を逸した感は否めないが、教育に対する政治の意向がこういうところにもすーっと(堂々と?)姿を現しているような気がしてならない。