NY弾丸旅行も終わり…ここぞとばかりにNYを謳歌。そこで感じたことをわすれないうちにまとめておきたい。
自分の足で歩き、自分の目で見る
有名どころ+社会科関連で見ておきたいところもだいたい行けたので総じて満足の旅。ちなみにこちらはウォール街!左の建物が金融博物館。
他にもいろいろと紹介したいことはあるし、すでに記事にしたものもある。終戦の日に是非ご覧いただけたら嬉しい。
この記事では、旅全体を通じて感じていたことをまとめておきたい。
社会の前提が違う
結論から言うと、
NYは「みんな違う」が前提だ。
日本は「みんな同じ」が前提だ。
もちろん、話を単純化しているし、社会の複雑さにどう向き合い、どう生きるか、を生徒とともに考える社会科担当として、ひとりの中にある多様さ、複雑さを切り捨てるつもりは毛頭ない。
が、滞在中にこの違いを感じずにはいられなかった。
誤解を恐れずに言うが、NYの街を歩いているといつでも感じていたことは、
「見た目が多様だ」ということ。
海外歴が長ければ違うのかもしれないが、やはりNYの人々の見た目の多様さは否が応でも感じる。見た目の影響力は計り知れない。
それは裏返せば、いかに日本が見た目が多様ではないか、もう少し言うと、人種としては似通った見た目の人が多いか、を感じた。
英語が母語であれば
感じ方は異なるのかもしれない。
つまり、もう少し「同じ」だと認識できる人たちが増えるのかもしれない。
それは、言葉によるやりとりで、相手の内面を理解できる可能性が大いに広がるからだ。
というか、言葉の通じない世界で、自分と「似ている」とか「同じだ」という感覚を抱く方が無理だろう。
あとは、アメリカというお国柄。自由を勝ち取ってきた歴史。そしてその歴史の上にある多様性。これらを尊重する国である、というのも大きな要素かもしれない。
ただやはり社会の前提として、
NYは「みんな違う」が前提。
日本は「みんな同じ」が前提にあるのではないだろうか。
でも、
東京だって実は
みんな違うのではないか。日本語という言葉は共通しているが、出身や微妙な方言の違いは日本語に内包されるレベルの違いでとどまっているだけで。
NYと東京の違いは、「違い」を見た目で理解できる社会かそうでないか。
何度でもいうがもちろん見た目が全てではない。が、これだけ見た目が違う人たちが集まれば、前提として社会は「みんな違う」で始まらざるを得ないだろう、と感じた。
みんな同じ、から思考や行動がスタートせざるを得ない。これは個人的な選択の問題というより、環境が思考を定めている、と思っている。
ただここで注意したいのは、当然だがNYが良くて日本はマズい、と言いたいわけではない。
そして最も言いたいことは、私たちの社会は、「違い」を認識しにくい社会である、という前提を共有したい、ということだ。
何かを言っているようで何も言っていない記事になってしまったが、社会を見る視座、社会って何?というところから見直せる夏休みは素晴らしい。笑
ps.教育界でもしきりに叫ばれるグローバル人材。でも教育者としては人材ではなく人間を育てる、ということを忘れてはいけない。