やっちゃえ先生ブログ

教員の、教員による、教育のためのブログ。 大胆かつ繊細に、実のある記事を。 民間企業→私立中高一貫校→私立高校(今ココ)。

聖徳太子も鎖国も復活する…教えやすさ重視?学問研究の尊重?

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「聖徳太子」の名前を知らない人はいないだろう。

同様に「鎖国」と聞いたことがない人もいない、といっていいだろう。

ちょうど半年くらい前に、この2つのことばが、教科書から消える!?という議論が話題になった。

「史実」に忠実に、という流れ

21世紀の歴史教育で現場も実感していることは、歴史用語は「当時の呼び方・発音になるべく正確に」ということだ。

たかがことばかもしれないが、されどことばだ。現地の文化を尊重しようとする態度は、仮にそれが杞憂に終わっても十分に必要なことだろう。

例えば、「イスラム」という言葉も、なるべくアラビア語そのままの「イスラーム」と記すようになっているし、始祖「ムハンマド」も、英語読みの「マホメット」という発音は日本ではほとんどされなくなった(実感がある)。

日本史でいえば、「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」というようにだ。

近代でいえば、あの「リンカーン」も教科書では「リンカン」だったりする。

この辺の言葉の使い方に対する素朴な疑問は、帝国書院のHPが大変丁寧で参考になる。

帝国書院 | 社会科Q & A − 歴史

聖徳太子・鎖国の廃止もこの流れでは必然……?

先の帝国書院のHPをみると、聖徳太子・鎖国についても、現在もその語用に対する見解が示されている。いずれも、研究成果を反映した、というところが共通だ。

ポイントだけかいつまんで引用しておく。

~聖徳太子~

聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。また、「聖徳」とは厩戸王子の没後におくられた名であること、また「太子」は「皇太子」の意味ですが、厩戸王子存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低い

~鎖国~

そもそも「鎖国」という言葉は、江戸初期から存在した言葉ではなく、江戸後期の蘭学者の志築忠雄が、1801年にオランダ商館医として日本に滞在したケンペルの著書『THE HISTORY OF JAPAN(日本誌)』オランダ語版の付録第6章を翻訳する際に「鎖国」という造語を作ったのがはじまりです。そのため、3代将軍家光の際に、キリシタン禁制政策の一環としていわゆる「鎖国令」が出されますが、「鎖国」という言葉が当時から使われていなかった

 

が、どうなったか?

ご存知の方も多いだろうが、聖徳太子・鎖国は復活する。

www.sankei.com

主な理由としては、パブリックコメントにおける呼称変更への批判だ。

その多くが、教えづらい、という現場の声を反映したものだったとされる。

帝国書院のHPにもあるように、聖徳太子そのものが信仰対象になりうる性格から、どうしてもネット上では右翼だ左翼だという議論がみられる。

ここでは、聖徳太子という言葉に、そういった政治的イデオロギーをこめる・取り除く意図はないことを断っておく。

その前提で、愚見を言えば、結果的に聖徳太子の呼称を元に戻すことはありだが、鎖国に関してはどうか、と思っている。

学問、研究の軽視

一言でいえば、厩戸皇子より聖徳太子が楽だ。鎖国はイメージしやすい。楽なのだ。

ただし、それでいいのだろうか?

研究の結果、より確からしい知識があるとわかったのに、慣習を重視して「より確からしいもの」ではなく、「より使い慣れたもの」を頼っている

自分も現場の教員ゆえ、「どうせ厩戸皇子といっても、(聖徳太子)ってあるんだからテストで×にもならないし、入試でも×にならないだろう」なんて思ったりする。

ただし、この自分の易きに流れる思考は、自分が最も警戒しなければいけない。

入試問題に出るから、ではなく、それが学問研究の成果だから尊重するのだ。

憲法に記された、学問の自由、真理探究への自由の結果、行きついた結果は尊重されるべきだと感じている。

国会では、聖徳太子・鎖国が消えることにたいして、「歴史に対する冒涜だ」と言葉が飛んだらしいが、この発言こそが学問に対する冒涜ではないか?と思ってしまう。

鎖国に関しては、実態としても「鎖国」 と教えない

鎖国に関して言えば、、まさに「鎖国」があることで教えにくい、のだ。

具体的にいうと、「鎖国と言うけれど実際はオランダや中国や朝鮮との取引や使節の往来が〇〇を窓口にして行われていたんだ、だから鎖国といっても云々」という説明が必要となる。

例えば東大入試問題を扱ったこの記事がわかりやすい。1年前の記事だ。

toyokeizai.net

えっ、「鎖国」中でもこんなに外交が行われていたの!? と驚かれたのではないだろうか。

「鎖国」中でも完全に交流を断っていたわけではない

実は「鎖国」と呼ばれていた17世紀半ばから19世紀半ばにかけてのこの頃、幕府は完全に海外との交流を断っていたわけではなかった。長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていたのだ。この4カ所を「四つの口」体制という。以下にそれぞれ解説しよう。

このように、入試だって学問研究を重要視する(というか大学はそのためにある)。より確かな真理を追究することが大学の使命だ。

繰り返すが、入試問題に出るから、ではなく、それが学問研究の成果だから尊重するのだ。

おわりに

時宜を逸した感は否めないが、教育に対する政治の意向がこういうところにもすーっと(堂々と?)姿を現しているような気がしてならない。