よい授業ってどんな授業でしょうか?
こういう記事が一番素が出る気がしますが、かつては(下のTwitterのヘッダにあるように)授業=「場の価値の最大化」と言っていました。
今もその考えは根底からは変わっていませんが、「場」って何だろう?「場の価値」ってどう決まるんだろう?という疑問もあるわけです。
結論としては、場を作るのは一人ひとりの生徒であり、年間なら年間で、形成的評価を続けて一人ひとりを見取っていくことを教員がないがしろにしてはいけない、授業でそれを放棄しては見るべきものが見えない、と思う(棚あげ)ようになりました。
雑記ですがそこに至るまでの道のりを書いてみます。
①確かな基礎力をつける授業
教員として最初に勤めた時の環境は、横(同じ科目を持つ別の担当者)と進度・定期考査を共通にし、指導に関しても特殊なことをするのは憚られる環境でした。
その中で、追求できる「いい授業」というのは、
楽しく、確かな力をつけられる授業
測定する方法としては定期考査の点数や、小テストのスコア、数値的な伸びです。
特に中学生も担当していたので、義務教育として指導要領内容である基礎知識をいかに(楽しく)定着させるか?にこだわっていたと今思います。
中学生の授業は、手を替え品を替え、色々な手法で知識の定着を目指し、その延長線上にある思考力を伸ばすこと、特に中学1、2年であれば勉強の方法自体を確立することを意識していました。
②揺らぎ、考え、表現する授業
同じ環境で高校生に対して授業を行なっていると、①に描いたような考えだけで、よい授業といえるのだろうか?と思い始めました。
義務教育を終えた高校生が、大学受験に備えた学びをする。でも、私の担当する公民科目を実際に受験科目として使用する生徒はあまり多くありませんでした。
そこで、意識したのは学力の三要素の真ん中の部分、思考力・判断力・表現力の育成です。もちろん、そのためには基礎知識が重要となることはいうまでもありません。実際に横で合わせて進度もコントロールしなければいけない環境は同じです。
どうすれば高校生にとって意味のある授業になるか。授業で扱うことを自分事に変え、1人の人間として自分自身と社会のあり方を考えられるようになるか、を正面から問うたのもこの時期かも。
偶然横で同じ授業を持っていた超ベテランの先生が、若造の提案にのってくださり、しかもそれを高いレベルで実現可能なものとして編集してくださったことが幸運でした。
これが結果的に質問づくりにつながります。
基礎知識をおそろかにせず、思考力・判断力・表現力を磨き、自分たちで自分たちの学びをつくっていくこと。
対話によって揺らぎが生まれ、そこから持続的な学びが生まれることも実感しました。
③一人ひとりの変化をみる授業
学校を移り、高校だけの授業になってまず感じたのは専門性の高さ。親学問に依拠しながら、高いレベルで高等教育の準備を行う、そんな環境です。
高校段階であれば、全員の学力面はある程度の範囲内におさまっているといえば収まっています。
そして、ほぼ全員が大学に進学するような環境において、どのような授業が意味のある授業か、と考えた時に①も②も大事であることは変わりません。
二項対立ではなく、「どのような条件の時に、より①or②を大切にすべきか」という問いに対して学習科学の知見を元に授業を作る、それが「教育のプロ」としての教員の仕事なのだろうという感覚です。
ただ、それだけでいいのだろうか?という思いがありました。何か大切なことを見落としているような。
そんな時に優れた実践を行なっていた先生方に共通する要素を見つけたのです。
それが、「一斉授業の中で一人ひとりを見とる仕掛けをつくっている」ということ。
本や論文を読んでも、コンテンツのオリジナリティ、専門性の高いフィードバック、場の空気感を生かした優れた実践はたくさんあります。
でもその中で特に光って見えたものは、「丁寧に一人ひとりをみている」ということ。
格好良く言えば、形成的評価・フィードバックを重視すること。
ハッティのメタ分析本においても、総論として形成的評価が学力の伸長につながることは示唆されています(もちろん個別具体の文脈に依存するものの)。
まとめてみると
「丁寧に一人ひとりをみる」こと、その前提として基礎知識の定着と対話による揺らぎがあること。
こうした条件が整えば、学校って面白いんじゃないかと思うのです。
良質な映像授業が発信される中で、学校というハコモノが行うべきことってなんだろう。10年後の授業ってどういう形なんだろう。
そういう問いに答えるには
授業の設計者として、かつ、生徒一人ひとりの支援者として教員はあらねばならないのではないか、と思っています。
いつでもどこでも学べる環境が整う中で、学校という場が再びその存在意義を高めることができるとすれば、どういう形なのか。
これを模索しつつ、自分の専門家としての力量を磨き続けたいと思います。
そのために大学院に身を置いたり、今までの専門分野とは異なる法学にどっぷり浸かろうと学びを深めています。
とはいえ、やはり③の要素、つまり「一人ひとりをここまで丁寧に見たことはない」、と言えるくらいの実践をして初めて次のステージが見えてくるのかもしれない。
おわりに
①〜③どれが大切、というわけではなく、全部大切で、1回ごとの授業ですべてがみられなくても何に重きを置くかによる。
でも、年間の授業の前提として、③のように変化を支援する教員のあり方を学校現場が外したらいけないのではないか、と思っています。
単発イベント型の授業ではなく、中長期的視点でその生徒と関わることができるのは学校という組織がもつ強みです。生かさない手はない。
だからこそ、
ーきちんと聴く、居ることを支えるー
ことを「授業」でも、実現していきたい。
ただ、それがなかなかできていないと思って今芋づる式に読んでいるのがこの辺の本です。心理と教育はとっても近い部分がある。
東畑開人(@ktowhata)さん『居るのはつらいよ』読了。紀伊國屋じんぶん大賞2020など受賞本。教育現場で、大多数を市場原理の社会に送り出す身として、学校のために生徒を居させていないだろうか?「居る」を尊重するケアも「前」を目指すセラピーも混在する教育という営みの中でhttps://t.co/MFrfbTTON4 pic.twitter.com/BCvATVqRCZ
— やっちゃえ|Blended Learning (@Yacchaee) 2020年2月17日
「居る」を支えられているか?
苦悩から死をほのめかしていた女子高生が、動画でライブ配信しながら自ら電車に飛び込む。
もちろん、学校で全てはできません。でも、そんなニュースが流れた朝だからこそ、学校の「居る」を支える働きについて考えてしまうのです。