再読して改めていい本だと感じたので広く読まれることを願ってます!
再読。装丁と邦題がアレですが、やっぱりいい本。認知科学の9原理に基づき教育を設計する知恵が得られる。原著は2009年だけど、5年後でも通用する大量のデータに基づいた原理だと著者が宣言するように、古さを感じない。主体的対話的で深い学びを支える良質な学習科学本の1つ。https://t.co/Xdwa1YFFZb pic.twitter.com/KbovrMDKVr
— やっちゃえ@Blended Learning (@Yacchaee) 2020年7月25日
- ざっくりいうと…
- 本書の核となるコンセプト
- 学習科学を扱わない「教職」
- 系統性が強い「教職」のあり方
- 「記憶は思考の残渣である」
- 家庭に依存する「思考力」
- 具体的に教員ができること
- 謎が残る「装丁」と「邦題」
- おわりに
ざっくりいうと…
概要をなんとなく書いておくと、認知心理学者である著者によって、家庭・教育現場で踏まえるべき9つの認知科学の原理が指摘されます。
これらの9つの原理に基づいて、
- 子供の知性の働きはどうなっているのか
- より良い教師になるためにその知識をどう生かせばよいか
を明確につかむために様々な研究成果が紹介され、そこから導き出せる教室への応用の仕方について学ぶことができます。
本書の核となるコンセプト
個人的に、本書の核は、「すべての教師が子どもに事柄の意味を考えさせる必要がある」(p.139)という主張であると思いました。
内容のないALを教育史の観点から批判する、小針先生の『アクティブラーニング 学校の理想と現実』を思い出したりしますね。
『教師の勝算』の主張は、系統主義と経験主義の対立を学習科学の観点から超えるものであり、子供が意味を考えるための知識の重要性を強調しますが、例えば、探究的な学びを必ずしも排するわけではありません。
逆に、目の前の生徒に合わせ原理に基づいた方法を取捨選択し、ハッティの『教育の効果』で示されるようなデータをも用いて授業を組み上げることこそ必要と感じさせてくれます。
www.yacchaesensei.com以下では、各原理を紹介するのではなく、この「意味を考えさせる」学びについて、「教師の学習観」と「教育格差」という2つの観点から考えたことetcをまとめます。
学習科学を扱わない「教職」
普段の授業で「意味を考えさせる」ことは無意識的に行なっていますよね。
なぜそれが大事なのか、といえば、「子供の能力が開花する可能性が大いに高まる」(p.373)からだ、と著者は指摘しています。
ただ、教員の方は振り返っていただきたいのですが、日本の教員養成課程において、学習科学に基づいた学習論を直接的に扱う授業ってあったでしょうか?
私の記憶では一部でした。海外では学習科学という分野を割としっかり学ぶ環境が割とありますが、日本の教職課程は、かなりの単位数を取らねばならず、実習等で忙しい4年間を過ごす大学生活にならざるを得ません。
教職の必修単位+自分の専門の単位に加えて、学習科学を学ぶことになる、その構造に大きな問題点があるように感じます。
系統性が強い「教職」のあり方
これは私が高校にいることも影響していると思いますが、日本の教師の学習観はどちらかというと、人間の持つ一般的知能を高めようとするのではなく、教科においてその「一般的知能の処理によって支持される特定のタイプの知能」(p.304)をより高めるような学習観が中心にあるような気がします。
高校の教員は、その担当教科の親学問を修めてきた人間が多いですよね。
進学校に特徴的なことかもしれませんが、人間はそもそもどうやって学ぶのか、という一般的知能の理解よりも、この現象はどのように説明できるのか、という学問性に寄ってしまう傾向があると思います。
でも、本書から学び取れることは、教科の系統性を意識した学習も、子供の興味・関心に根ざした経験主義的な学習も、どちらも「意味を考えさせる」という点で有益な学習である、ということです。
逆に、「意味を考えさせる」ことのできない学習は、深い学びを促さないわけです。
この点について、私が最も印象の残った9原理の1つが、
「記憶は思考の残渣である」
という原理です。
必死にここまでやってきたオンライン授業を振り返っても、「きちんと覚えられる」ことをテスト前なんかは大事にしますが、そもそもその前提には、理解があり、理解の前提には、思考がある、わけです。
生徒が学習の「対象に注意を払わなければ、それを記憶に残すことはできない」(p.104)のに、オンライン授業では、その様子を直接確認できないもどかしさを感じました。
注意を払っていない対象を付け焼き刃で理解して記憶することはできません。
もちろんそうした問題に対して、数々の仕掛けを講じ、個別で生徒と連絡を取る等の対応をしてきましたが、構造的な問題点は残っています。
オンライン授業は生徒が注意を払わなくても時が流れてしまい、教師はそれを直接察知することができない。
本書を読んで、教師はどんな授業形態であっても、どんな子供を担当するのであっても、学習における「意味」を生徒が考えるような授業を設計することの大切さを再度感じました。オンラインだとなおさら!
そしてもう一つ、本書の主題ではないですが、個人的に痛切に感じたのは、教育格差の問題。
家庭に依存する「思考力」
ここまで述べた、「意味を考えさせる」ことって、幼少期からの習慣も大きく影響しますよね。
要は、教師の働きかけ以上に、親の態度や、家庭の文化・経済資本に依存するのではないか、という疑問がわくのです。
例えば、松岡先生の『教育格差』においても、日本の小学校において、「入学時点の学力が、小4時の学力と関連している。また、小4〜中1まで格差は縮小・拡大せずに維持されている」(p.156)との研究結果が示されています。
小学校時点ですでに存在する格差に対して、公教育の担い手である教師と、子供の保護者が、認知科学の知見を活かすことができれば望ましいですが、実際は全ての家庭でそのような知見を生かすことは難しいでしょう。
だからこそ、
公教育、特に教員が学習科学の原理に基づく効果的な子供との関わりを積極的に行うべきで、それが難しい家庭の機能を補う必要があると思うのです。
具体的に教員ができること
本書では、そのための具体的な方法がいくつか紹介されていました。
例えば、「ストーリー仕立て」とか「語呂合わせなどのチャンク化」をいかした授業をしたり、知能は変わりうる、という「成長マインドセット」を教員が体現したりすることが語られています。
こうした具体的な方法論を意識して日々の授業に臨むことで、教師の「勝算」になるのかもしれません。
が、ここで敢えて強調したいことは、唯一、義務教育という制度の中で、意図を持って子供の能力の開花に向けて働きかけられる、学習の専門職が教師である、ということです。
「早い段階から知識面で遅れをとっている子どもは、何らかの手助けがなければさらに遅れを取ることになる。一部の子どもが低迷してしまう大きな要因がここにあることは、ほとんど疑いの余地がない」(p.96)
と著者が喝破しているように、公教育に携わるということは、校種・専門を問わず、大きな意義と責任があることだと感じます。
学習科学の知見が論の中心を占める本書を読んでも、この格差に対する意識は高まらないかもしれません。
でも、原理を踏まえた良い授業は、低迷する子供の認知に対して地味だけど確実に貢献するはず、再読して改めてそう思えました。
長くなってしまいましたが、さいごに・・・
謎が残る「装丁」と「邦題」
これは私の翻訳センスの問題だと思いますが、なぜ『教師の勝算』にしたんでしょうか…?
この本を読めば、教師が現場で勝算を持って子供たちとの関わり合い、授業に臨むことができるから?、と解釈はできるのですが…
原著のタイトルはこちら↓なんですよね。
これを話題のDeepL翻訳にかけると(超重宝しています!!)
なぜ生徒は学校が好きではないのか?
認知科学者が、心の働き方とそれが教室で何を意味するのかについての質問に答える
となります。直訳でもこちらの方がよかったんじゃないかな…
素人の意見ですが、少しスパイシーにいうと、この本の主たる対象が、おどろおどろしい装丁と「勝算」という言葉に惹かれる“マッチョ教師”であったのかもしれませんが、
万人に開かれる脳科学・認知科学をうたうのであれば、もう少し教師・保護者層に広く届くタイトルの方が適切だったのではないかと思います。
せめて、装丁は原著のシンプルな問いと色合いのテイストを生かす方が本書の内容とマッチするような気がします。
これは商売としてどう、という戦略性を抜きにした嗜好の問題かもしれませんが、
翻訳本を読むとき、私は原著の装丁をほぼ必ずAmazon等でチェックするのですが、本書の風合いや、内容から想起されることを大切にする、という形で著者への敬意を示してもよいんじゃないかと思うんですよね。
ちなみに、原著は2010年ですが、全く色褪せないので心配ありません!!
おわりに
「原理に基づいて建設された橋がどんな性能をもつか予測することができる」(p.372)
原理に基づいて設計された教育実践は、良い実践になる確率が高まる。
良い実践を継続することが、一人でも多くの子供の能力を引き出し伸ばすことになる。
その地道な、でも確かな営みを支えてくれる1冊だと思います、ぜひ!