もう生徒とは顔を合わせているけれど、今学期の授業計画の最終案を固めています。
2単位の呪縛
「単位数が多い=やりたいことができる」というわけではないですが、生徒にあれこれもがいてもらうためには、時間が必要です。
が、2単位だとどうしても限界がありますね。
例えば、9〜12月を2単位で回すと20回授業ができれば良い方。
20回をどう割り振るか?
例えば、20回を「1つの単元」で行うなら教科においても、生徒の関心ベースの探究を行う時間も確保しやすいです。
実際はそうもいかず(伝説の『銀の匙』は例外)、20回の中で、複数の単元を行う必要がありますよね。
20回を扱うべき単元数で割って、配当時間を計算しつつ、限られた時間の中で可能な学習活動をデザインするわけです。
変容を求める「授業」
授業や教育活動は突き詰めれば生徒に変容をもたらすものであるのかもしれません。
「その生徒がその生徒であること」を尊重しながら、授業の後には授業前とは違っていることを求める活動だと言えます。
そうなると、この授業が終わった時に、こういう状態になっていてほしい、という状態を考えるのは1つの手立てかもしれません。
期待される変容のために、例えば
- レクチャーの時間
- 学習方法
を考えるのですが、
そのためには、教員は色々な手札を持っていることが必要です。
(この手札が少ないと、「とりあえずペアで話し合ってみよう」みたいなことになるか、永遠と一方的なレクチャーを繰り広げることになってしまう)
そして、経験から学ぶと同時に、新たな知見を意図的に学習しなければなりません。
熟達者として、生徒の様子を観察し、この状況ならこれかな?という手札を増やし、学習の質を上げていくことが教員の役割です。
生徒の関心から始める?
でも、ここまで書いてみて立ち止まります。
授業時間数と、単元数で学習活動のデザインを考え、「計画」とするのが「ふつう」になっているけれど、果たしてそれは本当に「学び」なのか?ということ。
授業であっても「学び」ではない可能性を排除しきれていないのではないか、と思ってしまいます。
そう考えると、生徒の関心から始めることにどうしても惹かれている自分がいます。
遊びと学びの接点は?
生徒の関心から始める、といった時にわかりやすく対比する言葉として「遊び」があるかもしれません。
子供は本来、自分の関心のあることで遊びますよね。
でも、私にとって学校での学習が「遊び」でよいか?と問われれば、Yesとは言い難い。
そのモヤモヤを絶妙な言葉で形にしてくれたのが、先日のあすこまさんの記事です。ぜひ読んでください。
一部引用すると、
鍵になるのは、感情なのだ。感情を介さない知識は、ただの化石にすぎない。それは、いくらこちらが教えた気になっても、子どもの側には残らないだろう。知ることの喜びと紐づいた知識を、教えるというよりも作り出す。「教える」ことがそういう行為なのだとしたら、子どもの感情を尊重することは、教えるという行為の中核にある。子どもの興味、子どもの好き、子どもの反発。なんであれ、子どもの感情と紐づく場に知識は生み出される。
感情と知識を結びつける、ことで「学び」が生まれる、という視点。これは確かに社会科教員としても納得しやすく、生徒を見てもそうだろうな、と思う。
ただ、この言葉を読んで私が思ったのは、
「感情」なら何でも良いか?
ということ。
なぜそんなことを思ったかというと、
遊びと学びをどう繋げるか、というテーマは教師のライフヒストリーを語らせる引き金になる問いだと感じたからです。
例えば、自分なら
遊びと学びは全く両者は別で、経済的に厳しかった家庭の事情もあり「学ばなければ将来の展望が見えない」から学び、自分が相対的に「学び」が得意で、自分を社会的に確かめられるから学んでいた。
と、遊びと学びの関連を言語化します。
もう少し続けると
自分にとっては、
遊びよりも学びが好きだ!とか、逆に遊びの中で学んだ!という感覚もなく、遊びは遊び、学びは学び、という感覚でした。
故に、「感情」が遊びと学びの結節点となり、深い学びを紡ぐという落とし所は納得します。
でも一方で、感情の領域には相対主義の落とし穴or絶対主義的な帰結もある気がしています。
相対主義の落とし穴
具体的に言えば生徒が「へえ〜びっくりした!」と言えば驚き+少しの悲しみを伴った「学び」として成立するからOK、という相対主義的な帰結。
感情と紐づく知識を評価する、というのは極めて困難で、結果として感情の部分は評価せず、固定的な知識(事実)の部分を評価する、となれば、それって旧態依然じゃない?と思ったりします。
絶対主義的な帰結
あるいは、こんなにひどいことがあるんだ!理不尽だ!という感情を生徒に抱かせることを目標とする絶対主義的な帰結。
これはこれで狙うことはあるけれど、狙いすぎてそのアウトプットを評価するときに、生徒の感情の部分に介入しすぎている気もします。
いずれにせよ、評価の部分でとても悩ましさを抱えてしまいます(評価研究は価値判断から逃れられ無いのでドツボにはまる)。
話が込み入ってきたので戻しますが、
自分の場合は
社会的「責任感」や「使命感」をキーワードとしてきたタイプの人間なので、教科コンテンツの楽しさ、面白さをそれらと読み替えがち。
その暑苦しさは、学習科学の理論や様々な授業方法の融合で相対化されることもあれど、原点としては熱苦しい教員だと思います。
だから結局、自分の場合は、
これはやらなきゃなということを精選(自分基準になりがちだが)し、その授業を通して、生徒が何を理解し、どんな変容を遂げていてほしいか、を「責任感」「使命感」という言葉と紐づけながら授業計画を立てているんだなと思います。
まとめると
まとめられませんが、「逆向き設計」のように
教育によって最終的にもたらされる成果(「結果」)から遡って教育を設計する点、また通常、指導が行われた後で考えられがちな評価方法を先に構想する
ことが必要なのは、教科や学齢を問わず必要だよね、ということまでは言えそう。
純粋な学問の面白さを伝えたい!とも思う時も当然あるけれど、
でも、授業には必ず、教師としての価値観や信念が影響するし、それは("適切に")影響しているべきであるとも思うのです。
そうでなければ、一流講師の、学習科学の知見に基づいたe-learningの素晴らしい授業が受けられる時代ですからね…
授業数の表を横目に、直前の直前まで授業を練り直すことに慣れきってしまった教員の戯言でした…。