「疑ってかかる、の落とし穴」について考えます。
内田義彦を読もう
社会科学については、この人有名です。元々経済畑の方ですが、社会科学自体に対する深い洞察はいつもハッとさせられ、そうそう、とうなづかされ、気づきをもらえます。著書にも「社会科学」という言葉がタイトルに入っているものもあります。
で、そこで彼の主張を読んでいくと、ああ、と思わず膝を打ったわけです。
社会科学云々の前に、世の中に対して、言葉を投げかけてくれます。
彼の言葉は、古くて新しい。
現代に照らし合わせて考えてみます。
世の中のニュースやまとめサイト(おもしろい)などを見ると、何かにつけて誰かが「批判」をし、叩く、という風潮があることは事実と思います。
学校現場でも、「鵜呑みにするな、疑ってかかれ」とか、もう少しカッコつけて言うと、「批判的思考」(クリティカルシンキング)が大切だ!なんて言ったりしているでしょう。私もそれを叩き込まれた経験があります。必要なスキルだと感じます。
でも、多くの人は「批判」や「疑い」の意味を誤って認識している,と思うのです。
批判は、「物事を吟味」する、と言う意味です。カントの『純粋理性批判』という著作の批判という言葉も、そういう意味です。
日本で「批判」というと、「たたく」「注意する」といったニュアンスが多分に含まれてしまいます。そして批判に不可欠なのは「疑ってかかる」こと。だから、何かにつけて誰かが興味本位に「疑い」、「批判」する、という風潮があることは事実と思います。(人間は誰しも高みの見物が大好き。。)
でも内田先生は、こう言うのです。
疑ってかかる前に、信念はあるか?
と問うのです。
何かの価値を信じていないのに、疑ってばかりいても中途半端で上っ面しか眺めていない。そんな疑いは何の価値も生み出さないし、自己満足だと一蹴!
ここからは著書『読書と社会科学』からの引用です。
著者を信じること
よく、学問は疑いから始まるといいます。だから万事疑うことが重要だと。その通りです。(中略)だが正しいことが間違って受取られて大違いのもとになることもある。学問的発見の創造現場に立ってみると、疑いの前にというか疑いの底に信ずるという行為があって、その信の念が「疑い」を創造に生かしている。
自分も信じること
深いところで著者を信じることは必要ですが、自分を捨てて著者にもたれかかっちゃいけない。その時その時の自分の読みをとにもかくにも信じてそこに自分を賭ける。という行為(のくりかえし)
が重要だと言っています。疑いの前に、著者(本の場合)と自分を信じろと。
というか、私には、「批評家ぶって疑ってかかる前に、信じる価値を持て」と言っているように聞こえます。
読む人自身への信と忠誠を欠いた「盲信からくる粗読」は、その意味で非生産的です
さらに、
漠として不毛な疑惑ならば、別に学校でこと新しく教わらなくても、(中略)平素持ちすぎるくらい十分にもっているところ。むしろ、この種の「普遍的な疑惑精神」というか、万事を白眼視して踏み込まないくせですね、ー(中略)徹底して固執せず、白眼で、万事に程よく適当に接して、この一事に青眼の構えで対決することを嫌う、ーこの根深い精神的風土が、何事にもせよ、敢えて一事に身を託し、抵抗を排し、創意を持って探求する行為を阻んでいる面が強いんじゃないでしょうか。
言い得て妙だと思いましたね・・・現代の精神風土まさに。
最後に、読者に対して
どうか、何もせずに万事を疑っているひまがあったら、一事でいい、何かを踏み込んでやること、鋭敏な感覚を保持し、念のため事を確かめる労力と軋轢を厭わぬ気風を養って下さい。
疑ってばかりで、信じる事をしない。信念がないから、何かを創造する事もなく、揚げ足取りに終始する。そんな社会に強烈な(言い方は優しいが)喝!ですね。
こういう文章を読むために取った本ではなかったのですが、
「疑ってかかる」ことの落とし穴に気づかされますね。
生徒にも、どうせ生きているなら、なんとなく生きてほしくない。信念をもって生きてほしい。と思っているので、ビシビシきました笑