やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

カリキュラム・マネジメントの第一歩はここから手をつけるしかないと思えた話。

2学期からのエンジンをかける直前でしたが、教員同士で自分たちの学校のカリキュラムの課題を考えるワークショップが行われました。

いわゆる、カリキュラム・マネジメントの話です。

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カリキュラムマネジメントについては、今年3月に開催されたこちらのイベントの資料が大変わかりやすく、現場の実感と理論を橋渡しした内容になっていますのでぜひご覧ください。 

www.yacchaesensei.com

全員で、ひとつのテーマを話す

今の勤務校は、各教科に専門家的な教員が多い学校です。

職員室に全員が集う前任校とは異なり、各教科や分掌の部屋でそれぞれの教員が日々過ごしているので、全員が一堂に会することはそうそうありません。

さらに、一堂に会して「学校の未来」を考えるような時間もなかなかありませんでした。その意味で、今日は年に限られた回数しかない機会だったと思います。

ワールドカフェもどきの形式で、模造紙やマジックが使用でき、メンバーもランダムで行ったことも効果的でした。

自分で体験して思うけれど、教員集団でそうなのだから、生徒の授業ではなおさらその「場のデザイン」に気を配らねばならない、と再確認できました。

授業は「場の価値の最大化」です。

何の教科であろうと、「個の学びを担保する仕組みは?」「同時に全体をどう動かす?」「何が効果的な学びに必要?」と自分に問いかけることでより授業は効果的になります。(授業論ではないので閑話休題)

チームで取り組むカリマネ

チームとしての学校」として「カリキュラムマネジメント」を行おうと思ったら、当然だけれど、一筋縄ではいかない。

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カリキュラム・マネジメントのロードマップを描いて、実現可能なところから実行しつつ、考える。いわゆる「走りながら考える」ことになります。

冒頭で紹介した記事でも、自分でこうまとめていました。

走りながら、考えていきましょう」は溝上先生のお言葉。
この言葉には桐蔭学園でも反発もあったそうですが、やってみるとやっぱりそうだった、ということを実感を持って語られていたことが印象的でした。

今日自分が経験した議論は、走りながら考えるための第一歩だったのかな、と思えます。

一人でああだこうだ嘆いていてもなんの意味もないというか感じ悪いヤツになってしまいますからね、そうなると全然話が進まなくなっちゃう。

意味のない職員会議ではなくて、今日のような未来を考える時間を定期的に取ることができればなあ、とずっと思っていたけど、私学の教員はとにかく自分たちで色々とやれることがメリットでもあります。

まずは、今日の集まりで各教員から出たアウトプットをこれからどう活かしていくか?PJリーダー(とってもいい人だから任せて甘えがち)に任せるのではなく、自分ごととして考えて個人的にも対話し続けたいと思います。

正直に言って

各教科・各教員の信念は割と強く、セクショナリズムも感じる職場なので、「分かり合えるかわかんないな〜」と思っていましたが、邪推でした。

自分のグループにいた大御所の先生が「教員が互いに何をやっているかをスケジュールと一緒に見える化しないと教科横断も何もわかんねえからな!」と言ったときは、とても嬉しかった。

カリキュラム・マネジメントは下手すると、学校教職員の多数派による全体主義になりかねない中で、型にはまることを厭う先生にとっては苦痛かもしれない…と本当に邪推していましたが、杞憂でした。

もちろん、本心がすべてワークショップの俎上にあがったとは思いませんが、

まずは話してみるしかない、ですね。

「意外に分かり合える」のも対話するからです。通常業務で日々の雑踏に流されていくと、どうしても対話がおろそかになったり、機会を逸してしまいます。

生徒に「主体的・対話的で深い学び」をさせようとしているのに、教員が学校全体の話に他人事で、対話をせずに持論に凝り固まっていたら本末転倒、というのは種々の本で口すっぱく言われていること。

だから、話すしかない。

でも、ただ話すのではなくて、ワークショップやミーティング手法の力を借りて、なんとなく”非日常”的なセッティングで”日常”について対話することに今日は意味があった気がします。

これが、組織としてだんだんと“日常”で“日常”を語り合えるようになっていけるように、一つ一つ丁寧に仕事に取り組みたいと思います。