やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

なぜ学校に行くのか?に一言で答えるなら‥?

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2月となれば、学年末に向けて、1年間の総仕上げです。

携わっている高校生のプロジェクト学習も総仕上げです。

(今帰路ですが最高にワクワクしていて疲れが週後半にどっとくること間違いなし)

 

◯成長の条件とは?

さて、タイトルの問いに答えるために、「成長」の話をさせてください。

日々生徒の成長のために、様々な働きかけをしています。

 

いろいろな働きかけをすると、成長する生徒には共通する「ある条件」があります。

今回は、人格形成における成長というより、主に「学習面」での成長についてです。

この「ある条件」は大人も共通しているものです。

 

それは、 

一言で言えば、「プライドを捨てられるか」です。

「プライド 成長」で検索するとこんな診断がでてきました(笑)

あなたの成長を妨げるものは? プライド診断|「マイナビウーマン」

 

「新しいもの・こと、に対して自分を開き、

できなかったり揺らいだりする自分をも認め、

新たな自分になってやろうと思えるか」です。

 

そのためには、

できないことを怖がらないこと。

新たな努力の方法を試すこと。

これが必要です。

 

自我がはっきりと自覚できる大人であれば、このプライドを捨て、新たな努力の方法を試すことはある程度思考実験的にできるかもしれませんが、(一部の大人は除く)

身体的にも、精神的にも成長途上の生徒たちには、幾分難しかったりします。

プライドを捨てる、ためには「自己肯定感」が必要だからです。

 

ただこれは、大人にも言えることですよね。

「できる」大人は、(変な)プライドがありません

ビジネスでも、目標に対してあらゆる手段を試してみる。

でも機械的ではなく、そこには熱がある。自己肯定感はあるのです。

そして最後に、結果を残す。出せなくても、次に繋げる。

そんな大人が「できる」大人だと私は思っています。

 

◯タイトルの問いに答えてみる。

なぜ学校に行くのか?

その答えは、

学校は「できない」ことを「できる」ようにする場だから。

というのが、問いに対する一つの有力な答えではないでしょうか。

もちろん、学校に行く意味は様々な観点から検討できます。

それでも、様々な観点から検討した「学校に行く意味」を包括する答えが、この答えであるような気がします。

 

逆説的ですが、家庭でそれが可能であるならば、学校に行く必要はないのかもしれません。

例えばアメリカでは、ホームスクーリングが公的に認められていますもんね。

 

 話を戻して、少なくとも日本の学校では、

「できない」けれど、「できる」ようになることを信じて、

一人ひとりの(発達)段階に応じて、授業に代表される教育活動を構成します。

そこには、変なプライドは無用です。

極論すれば、できなくたっていいのかもしれません。

できるようになるために努力すること、他者との営みの中で自分と向き合うこと。大人が付かず離れず見守り続けること。そうして育む自己肯定感です。

 

◯おわりに

①当然ですが、「できる/できない」だけを価値尺度にしてはいけません。

また、一人ひとりの「自己肯定感」と「できる」のためには、様々な配慮が必要です。

 

②私も変なプライドを捨てて、毎日簡単でもいいからその日の学びを記事にすればよかったんですね( ̄▽ ̄)