久々の更新。探究に対するモヤモヤを形にしておきます。
まず、私はここ数年勤務校で探究学習を担当しています。
様々な機会を頂戴し、学校における探究学習の事例も、外部協力者を交えた探究も、相当数を見てきたと思います。素晴らしい事例から多くを学びました。
そして、コロナ禍で変化を迫られながらも、今も継続的に探究に関われています。タフですが大きな経験をさせてもらっています。
また、大学院でも理論的・実践的に(学校種を問わず)探究学習を見つめなおす機会を得たことで、「良い探究」を成立させるための視点が確立してきたように感じています。
もちろん、以下に記す視点は、今後も変化する部分が多々あるかと想像しています。自分なりの探究「観」も更新されるものだと思っています。
が、自分なりに一旦言語化しておこう、という記事です。
前提:探究の定義
「探究」の定義はこの引用に従うものとします。
「探究」とは何等かのサイクルを回すということ、起点から何らかの経験を経て、変化が起き(Transform)、新しい状況へ到達するということではどの手法も共通しています。
そして、世の「探究」もおよそこのような「サイクル」を前提にしていると思います。
皆さん見慣れたこちらの文科省の図も「サイクル」ですよね。
①どのレベルの探究を目指すのか?
よい探究のために大切なことは、どのレベルを目指しているのか、どの探究をやろうとしているのか、の整理です。レベル、というのは下の4レベルのことです。
この表で言えば、自分が関わる探究はどのレベルに属しているでしょうか?
まず、注意が必要なのは、④が良くて、①が悪い、というわけではない、ということです。
あくまでその学校の、その生徒や教師の置かれた状況によって、どの探究を志向するかは変わる、ということです。
私の場合、教科内の「探究」は、①~③であることが常です。「この課題はプロセス(進め方)は指定しよう」とか、「問いもA~Cの3つから選ばせよう」という形で使い分けます。一方、担当している探究の授業(選択授業)は④の形だよ、と明示しています。
ちなみに「3 ガイドされた探究」は、真ん中の「プロセス」だけチェックが入る探究もあると考えています。例えば、問いと結論は色々なバリエーションがあるけれど、分析の視点・プロセスは必ずこういう要素を入れる、と指示する探究がそれです。
この探究のレベル感をはっきりさせる最大のメリットは、探究の力点が明らかになることで、生徒の取り組みと教員の支援の力の入れどころがはっきりする、ということです。
とはいえ、多くの学校が目指す探究、そして「探究」の本来的な姿は「④」のオープンな探究であり、ここに難しさがあると考えています。
それは、汎用的な教材では乗り越えられない、という探究の困難さがあるということです。
②どのような支援を用意できるか?
とにかく探究には「長い失望の期間」がつきものです。
生徒が探究のコントローラーをがっちり握る、自由度の高いオープンな探究を目指せば目指すほど、「思うように進まない探究への失望」を織り込んで指導しなければなりません。
しかしながら、これまで学んできた「探究」関連の研修では、カリキュラムや評価といった「学校」が主語となって行う用語が飛び交い、そこで失望しながらも探究している生徒の姿がやや見えにくくなっているかな、という感覚を持っています。
確かに、探究においても素晴らしい教材が増え、その成果を公開する学校も増え、充実してきたことは間違いありません。
大阪教育大附属の平野校舎はその筆頭格であり、今も中等教育の探究学習をリードする存在です。支援ツールも自由にダウンロードできます。
hirano-h.cc.osaka-kyoiku.ac.jp
しかし、目の前の生徒の探究が、教材通り進むことはほぼありません。このスタート地点を認識する必要があります。
となると、教員がすべきことの主は「対人支援」になるわけです。
長い失望の期間にいかに付き合うか。探究関連の研修で足りないのは、この具体的で地道なやり取りの姿を見せること、だと思うようになりました。
フィードバック、形成的評価の大切さをずっとこのブログでも書いていますが、やはり同じです。そして、この個への支援については、対面とICTをうまく組み合わせることでよりよい支援が可能になると考えています。具体的な支援策は改めて、にしたいと思いますが、「自己開示を促す振り返り」がカギを握ると思っています。
③予定調和に落とし込んでいないか?
オープンな探究は、その性質上、予測不可能な学びです。
予測不可能だからこそ面白いのであり、そこにこれまでの学校教育で失ってしまっていた価値があるから、今こうして脚光を浴びているわけです。
しかし、(汎用的な教材を使うと、)この予測不可能な学びという性質をどうしても忘れてしまう、という危惧を持っています。
教材を使うことが悪いのではなく、使うことで指導する側は自然と、生徒のグダグダ(あえて言いますが)に付き合うよりも、「次何をするか」という思考になってしまう。
そうなると、本来は一人ひとりが違う興味をもって、違うペースで、違う形で進めていく探究の良さが薄れてきます。
もちろん、オープンな探究でない場合は、「次何をするか」を優先的に進めるべきシーンが多くありますが、オープンな探究では注意が必要です。
注意しないと、指導する側が「探究の進んでいる子とそうでない子」という既存の枠組みに絡めとられてしまう。それが汎用化された「教材」・「ツール」の怖さです。
そして知らず知らず、予定調和的な探究の着地を志向してしまう。
教員がそうなると、生徒は敏感にそのにおいを察知し、「あ、先生が求めている通りにやればいいんだな」と落ち着いてしまいます。つまり、探究のコントローラーを手放すような格好になっていきます。
そして、「やらされ探究」になり、探究がおままごと化してしまう。それは本来の探究学習の対局にあるものです。
そんなことが起こっていないか、考えさせられる日々です。
受験のための探究の是非
この「予定調和」的な探究に関連して、興味深い出来事がありました。
ある生徒が学校説明会で自身の探究について話をしたところ、ある保護者から「それって受験に生かされますか」というような質問があったそうです。
また、別の生徒も「何をしても、受験のためにやっているとみなされてつらい」と言っていました。
もちろん、受験に生かす生かさないはそれぞれなのですが、勤務校の探究は「受験のためにこの授業を取ろうとしている人はとらないほうがいい」とまで言っている授業です。だから良いわけでも悪いわけでもなく、そういう位置づけを勤務校ではしています。
なぜ探究か?
そもそも、私たちはなぜ探究をしているのでしょうか。
指導要領で各科目で体系的な指導が可能なのにもかかわらず、なぜ探究をするのか。
それは探究が生徒の持っているものを強く引き出すからであり、自分の人生を生きるのは自分である、ということを体得できる機会でもあるから、と私は認識しています。
強い言い方をすれば、学校は、生徒から「あなた」を奪ってきたことを認識しなければならないと思っています。
そうした側面を認識したうえで、何かのために学ぶ(私はこれを「未来のために現在を手段化する」という表現でよく伝えます。これには当然ですが良い点も悪い点もあります。)ことから、自分をはがしていくことを学校は支援するべきではないか、と感じているわけです。
それが、本来の「学び」の面白さに触れることになるのかもしれません。
他者から「受験のため」とみなされようとも、そこに「わたし」が確かに存在していれば、きっとそれは生徒の中で残り続ける学びの体験になるのだろうと感じます。ぼかしてる気もしているけどそう思ってしまうんだよなあ私は。
探究の沼を一緒に泳ぐ
探究に携わって、はっきりと認識していることは、これは一筋縄ではいかない学びである、ということです。
手のかからない生徒はいない、という当たり前の事実を思い知らされます。
そういう認識で探究の「沼」を一緒に泳ぐ実例こそが今求められている事例なのかな、と思っています。
ただ、これを大人たちに共有すると、「再現性がない」とか「あなたの学校だからできるんですよね」ということになりがちです。
しかし、探究は本質的に再現性がない要素であふれざるを得ません。そして、「自分の学校でできること、やるべきことを徹底してやる」のが学校という現場に身を置く教員の仕事では?と思ったりしまいます。
「個に徹することで、普遍が見える」という方が実態に近いのでは、という感覚を、今の私は持っています。
おわりに
とりとめのない記事になってしまいましたが、よい探究を支援するためにできることを淡々と、一つひとつ続けていくことはやめずにいようと思います。
- どのレベルの探究を目指すのか?
- どのような支援を用意できるか?
- 予定調和に落とし込んでいないか?(+なぜ探究か?)
少なくとも、この3つの問いは常に自分に対して投げかけていこうと思います。
苦しい時間の方が長いかもしれませんが、全国で探究に携わる素敵な先生方を見ていると、勇気をもらいます。私もそのようにありたいと思う夏の終わりでした。