ちょっと思うことがあったので記しておこう。タイトルは単純化しているのでご容赦を。
気になる生徒の情報
このご時世だから、紙だろうとデータだろうと、基本的に学校でもあらゆる情報を共有している。
そして、リアルな話ではあるが、多少なりとも「気になる生徒」や「気になる保護者」の情報は教員間で共有する必要はある。
一人で抱え込んでおかしな方向にいくよりも、情報を共有して相談して進めていくのがあらゆるケースにおける鉄則ですらある。
教員に限らず、組織で仕事をする人間ならもはや当然とも言える話である。基本原則としては全くその通りだと思う。
情報が自分を規定する
実際に、情報は共有され、あらゆる場面で「〇〇さんといえば、〜〜」という認識が良くも悪くも広まっていく。
ただ、そうやって情報が知れ渡る(そうした情報は「知っておくべきもの」という価値観も浸透する)ことで、「何でも筒抜けになってしまっていないか」と疑心暗鬼になっている保護者や生徒もいるように思う。
実際に生徒を見ていると、過去に成績不良や、出欠席の問題、生徒指導等で問題を抱えた生徒は、その後も「自分は手のかかる(できの悪い)生徒だから」と自分で自分を思い込ませていることもある。
そして、それによって、ポテンシャルを発揮することを自ら阻害してしまっている節もある。
(ゴフマンの「役割演技」と言って良いと思うし、「学習性無力感」にも近いような気がする)。
あえて知らないこと
だからこそ、時には「あえて知らないこと」も必要なのではないだろうか。
知らないふりをすること、と言ってもいいのかもしれないが、戦略的に「知らない」「知ったとしてもそのことを自分の振る舞いの前提になるべくしない」ようにする、ということ。
「あの保護者はクレーマーなんだよね」という言葉を聞いてしまえば、いざ自分が対応する時に、相手を「クレーマー」とみなす自分が顔を覗かせる。
「ほんっとに大変な生徒だから頑張ろう」と言い聞かせれば、「ほんっとに大変な生徒」として生徒を見つめる自分がそこに現れる。
初任の先生や実習生の強み
そう考えると、「知らない」という点において初任の先生や実習生は最強である。
教員になり、長く勤め、深く関わるほど、どうしても知ってしまう情報もある。
自分を棚にあげるが、あえて最高学年の授業を行う年度始めには「(昨年このクラスを担当していた同一教科の教員から)みんなのことをあえてあまり聞かないようにしてきた」と明示することさえある。
ある生徒にとっては、自分を「劣等生」として見ていない、という教員のスタンスの発露は安心感にもなりうる。
そして、こうした教員としての戦略は担任にはできない。担任は「知らないふり」をすることが極めて難しい立場だからである。
情報は先入観に変わる
ことばや振る舞い一つで、ポテンシャルが発揮できる環境が整うならそういう道を積極的に見つけていきたいし、知らないなりの関わり方、臨み方はあるんじゃないかな。
お世話になった先生が「大人はね、知らないふりが上手なのよ」と、生徒に対峙していたシーンを思い出しました。
今日の話は具体的な文脈においては全く成り立たないけれど、時にはちゃんとびっくりしたり、ちゃんと困ったりすることって大事だと思った1日でした。
同時に、自分が直接その場に居合わせたり、印象を抱いたものに対しては、声をかけたり、話を聞いたり、自分からはたらきかける、ということも大切なのだろうな。