やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

「自分の意見を持つこと」よりも大切なことは?ー学校教育・教員が果たすべき役割ー

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自分の意見を持つことを授業で重要視することは多いでしょう。

でも、それを強調するよりも大事なことがあると思います。

自分の意見から自由になること

先に結論を提示します。

意見を持つことが悪いわけではない。

でも、自分の意見を何度も自分で揺らがせられること。

これが何より重要だと思います。

その「つら楽しい」プロセスを楽しめること。

自分の意見を超えたところに、もっと面白い世界があると知ること。

もっと面白い世界の見方ができるようになる、ということを体験すること。

学校という場で、今求められているのはそういう学習体験だと感じています。

ただし、「体験」を強調して知識を軽視するつもりは毛頭ありません。

「記憶=思考の残渣」である

そもそも自分の意見をつくるには、知識が必要なことはいうまでもありません。

ただ、人間は忘れます。忘れ続ける中でも確かなことは、

考えたことが、記憶に残る。

ということ。

『教師の勝算』や『7つの神話との決別』のような安易なALに警鐘を鳴らす本を読むと、そのことを研究成果をもって示されているのでより実感します。

となれば、意図的に様々な意見に触れて、考えを揺さぶる必要がある。

それができなければ、都合の良い考えだけが「記憶」に残り、それを強化することになるでしょう。

SNSやネットでOKか?

様々な意見に触れることが大事、なら学校空間で決まり切った知識を伝達するのではなくて、実社会の問題・リアルを見つめればいいじゃないか?そのためにSNSで意見収拾すればいいのではないか?とも思えますが、

その機能をSNSでは果たせない、という研究成果も出されています。

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まだ現実的・社会的な立場に絡め取られていない10代のうちに、学校で教育を受ける理由の一つをここに見出せるかもしれません。

学校と教員の役割

学校という場で、顔の見える関係で、信頼と安心を得られる場所で尊重され、(精神論くさいが)はじめて多様な意見を受け入れ、自分を揺らがせることができる。

自分から自由になる時間を、授業でデザインするプロが教員であるはずです。

どんな教科でも、その点において教員の役割はブレないと思います。

あまりに大きい家庭の役割

そしてそれを支える家庭の役割はあまりにも大きいのです。

学校でできることの多くは、愛情を注ぐ家庭があってこそ成り立つもの。

昨日のこのツイートもそういうことだと思っています。

おわりに

自分の意見を、何度でも自分で揺らがせられること。

その「つら楽しい」プロセスを楽しめること。

自分の意見を超えたところに、もっと面白い世界がある。

これを体感してきたから、私たちは教員になったのではないでしょうか?(言い過ぎ)

特に中学・高校のアカデミック教科を教える教員の原体験に、「その分野を通して自分の目が開かれるような思いがした」ということが一度はあるはずです。

自分から自由になる時間を、授業でデザインするプロが教員であるはずです。

そういう視点から、教科で果たすべき役割を考えて授業を作り続ける、GW明けの怒涛の1週間なのでした…