自分の意見を持つことを授業で重要視することは多いでしょう。
でも、それを強調するよりも大事なことがあると思います。
自分の意見から自由になること
先に結論を提示します。
意見を持つことが悪いわけではない。
でも、自分の意見を何度も自分で揺らがせられること。
これが何より重要だと思います。
その「つら楽しい」プロセスを楽しめること。
自分の意見を超えたところに、もっと面白い世界があると知ること。
もっと面白い世界の見方ができるようになる、ということを体験すること。
学校という場で、今求められているのはそういう学習体験だと感じています。
ただし、「体験」を強調して知識を軽視するつもりは毛頭ありません。
「記憶=思考の残渣」である
そもそも自分の意見をつくるには、知識が必要なことはいうまでもありません。
ただ、人間は忘れます。忘れ続ける中でも確かなことは、
考えたことが、記憶に残る。
ということ。
『教師の勝算』や『7つの神話との決別』のような安易なALに警鐘を鳴らす本を読むと、そのことを研究成果をもって示されているのでより実感します。
『教師の勝算』読了。「問い方のマジック」に陥らない科学的な書。学習者中心主義を否定するものでもない。ブルームのタキソノミーから言っても真っ当。
— やっちゃえ先生@2つのPBL (@Yacchaee) 2019年5月5日
知識は全ての土台🗻
・記憶=思考の残渣
・思考には知識が必要
・知識を使う練習も必要
・その上で比較分析統合が可能https://t.co/lwzU19pSTI pic.twitter.com/WYHsSF6Kx5
となれば、意図的に様々な意見に触れて、考えを揺さぶる必要がある。
それができなければ、都合の良い考えだけが「記憶」に残り、それを強化することになるでしょう。
SNSやネットでOKか?
様々な意見に触れることが大事、なら学校空間で決まり切った知識を伝達するのではなくて、実社会の問題・リアルを見つめればいいじゃないか?そのためにSNSで意見収拾すればいいのではないか?とも思えますが、
その機能をSNSでは果たせない、という研究成果も出されています。
まだ現実的・社会的な立場に絡め取られていない10代のうちに、学校で教育を受ける理由の一つをここに見出せるかもしれません。
学校と教員の役割
学校という場で、顔の見える関係で、信頼と安心を得られる場所で尊重され、(精神論くさいが)はじめて多様な意見を受け入れ、自分を揺らがせることができる。
自分から自由になる時間を、授業でデザインするプロが教員であるはずです。
どんな教科でも、その点において教員の役割はブレないと思います。
あまりに大きい家庭の役割
そしてそれを支える家庭の役割はあまりにも大きいのです。
学校でできることの多くは、愛情を注ぐ家庭があってこそ成り立つもの。
昨日のこのツイートもそういうことだと思っています。
一連のツイート、非常に勉強になります。「視線を食べさせてもらえなかった」子供は中高生になっても、そのことを「愛を注がれなかった経験」として自分の中で育ててしまうケースが多い気がします…「目」をかける、とはよく言ったものですね…👀 https://t.co/Bv9SY7rg5a
— やっちゃえ先生@2つのPBL (@Yacchaee) 2019年5月13日
おわりに
自分の意見を、何度でも自分で揺らがせられること。
その「つら楽しい」プロセスを楽しめること。
自分の意見を超えたところに、もっと面白い世界がある。
これを体感してきたから、私たちは教員になったのではないでしょうか?(言い過ぎ)
特に中学・高校のアカデミック教科を教える教員の原体験に、「その分野を通して自分の目が開かれるような思いがした」ということが一度はあるはずです。
自分から自由になる時間を、授業でデザインするプロが教員であるはずです。
そういう視点から、教科で果たすべき役割を考えて授業を作り続ける、GW明けの怒涛の1週間なのでした…