やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

学校で大切にしたいことを見つけたー授業「デザイン」の落とし穴から見えた景色ー

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1月から3月の学校はちょっと好きかもしれない。

生徒に少しの余裕がある

ちょっと余裕があるのです(まだこの時期は)。

試験前やプロジェクトの大詰めになってくると疲弊して本当に自転車操業の生徒も増える中で、新しい年は一旦リセットされることも多いですよね。

概論であって例外は必ずありますが、

受験生はそれぞれの戦いをそれぞれが必死に頑張っています。

1年生は学校生活にある程度慣れて過ごし方もわかり、自分の興味のあることに対してアンテナを張って動き始めています。

2年生は部活を続けていれば中心で最後の大会や発表に向けて努力を重ねつつ、進路に向けてもギアをいれ始めている。一方で課外活動などにも積極的に参加したりしているわけです。

3年生の最後の頑張り、1,2年生の落ち着きと充実。

それぞれが挑戦、自己実現に向けた営みを各所で起こしていて、そのうごめいている状況をみるのがとても面白い。教員も3年生の授業が減ったり少しの余裕が出ていることも好影響かもしれません。(トレードオフとしての入試業務)

自然発生するプチプロジェクト

その営みの中で、新年早々の1月は試験等の追ったてられるイベントが少ないからか、生徒の自主的な学びがいくつか発生しているのです。

それは、授業という枠や、〇〇講演会とか、そういう枠ではなくて、昼や放課後の時間を生徒が使って勝手に行なっている学びの時間

一例をあげると、

他にも、生徒がちっちゃい規模でいいからこんなことしたい!という願いを自分たちで叶えていったり、教員が色々なツテで繋がっている外の人を呼んだり、保護者の人脈を生かしたイベントがあったり。

3学年がずんずん動いている4~12月とは違う空気を感じています。

小さいけれど、学びの場が生徒の間で自然に生まれている。

そしてその学びを教員が楽しみつつ支援している。

これは本当に豊かな時間だなあと思ったわけです。

デザインの落とし穴

教育や授業のことを勉強していると、大なり小なり「デザイン」することが当たり前の生活になります。

でも、このデザインには落とし穴がある。

要するに、生徒の営みを記号化してしまうということです。 

こうすればこういう反応が生まれる、こうすればこうなる、そういう予測を記号化して全体のデザインとして落とし込むのが経験とともにうまくなってはいくのです。

偶然を面白がる 

でも、デザインすることが上手になると、

「生徒と一緒に得体の知れないものを面白がる」という発想がどうしても抜けがちになります。 

デザインがない方がいいわけではありません。でもそれに肩入れしすぎると、場の中で生まれる偶然を楽しんだり、生徒の思いを嗅ぎ取ったり、潜在的な欲求を見出しにくくなる気がします。

その意味で、先に引用した「放課後プチ読書会」のようなイベントは、生徒が「好き」を共有して、その協働そのものを楽しんでいるように見えました。

協働する力をつけよう!といって取り組むよりもよっぽど強いですよね。

生徒がそういう「しかけ」を、いの一番に相談してくれる教員でありたいし、その信頼関係を「授業」でしっかり作りたい。

おわりに

短めの記事ですが、日常に流したくないので記事にしておきました。

「何が生まれるかわからないけど、やってみたい」

そんな思いを生徒が持ったとき、それを実現可能なものにするリソース・文化に支えられ、プチプロジェクトを勝手に生徒が始めていること。

少なくとも今の勤務校にはそれに近いものが(まだ)ある。そして、それは教員と生徒の信頼関係があってのことでもある。生徒を信じて面白がること。いつまでも大事にしたいと思います。

見えにくいし、大げさなことではない、でもそういうところに学校の底力が宿っているように見えた。

小さく、根強く。ひとつひとつ。