今日は、第4章「書き手を育てるミニ・レッスン」の書評です。多少第5章の「読み手を育てるミニ・レッスン」の内容も入ります。
もくじ
ミニ・レッスンとは
「どうやって書くのか&読むのか」について先達のアドバイスを生徒に伝える場のこと。
アトウェルのワークショップ授業では、毎回このミニ・レッスンが最初に組まれます。
よいミニ・レッスンは、 実践的で、生徒たちが取り組んでいることと関連していて、理解しやすく、影響や効果が広範囲に及びます。ミニ・レッスンはクラスの生徒全員と会話する場です。そこで、書くことにおける問題、確実にうまくいく解決策、前に進めるような助言などを話します。また、ミニ・レッスンは。生徒一人ひとりが自分の書きたいことを見つけて、それに取り組むことを大切にしながら、私がこれまでに国語教師として得てきた知識を譲り渡す機会でもあります。(太字は筆者)
このミニ・レッスンは、全員に同じことを教える場です。相当な工夫を継続的に重ねていかないと、効果は最大化されません。
だからこそ、教師として燃える場でもある。
「場の価値の最大化」をしつづけるアトウェルの姿勢は、僭越ですが、大変共感を覚えます。ワークショップ授業をしていなくても、全ての胸に留めるべき姿勢です。そうでなければ、個別化されたウェブ講義と問題集に取って代わらr
リズムを体で覚える
「手順が整っている」ワークショップ授業の方式は少しばかり複雑です。簡単なようで、色々とルールや方法が定められています。
生徒がその様式を理解し、何も言われなくてもすべきことをできるようにするために、何度もなんども反復して体に染み込ませる。
この話を読んで、思い出したのは溝上先生のこちらの本。優れたAL授業の多くが、「身体性」を伴うものだった、という分析です。
『イン・ザ・ミドル』の中で生徒の身体性について直接言及されている部分はほとんどないけれど、アトウェルは教室の教具類の配置、椅子の種類にもこだわっていて、それに近いものを感じさせます。
と書いてみたけれど…
むしろアトウェルの授業では
“よりよい書き手&読み手になる”という目標があるだけで、そのために「整った手順」を踏まえて、学びの個別化を図っていくことが何よりも大切で、その実現こそが重要である。つまり、身体性にあまり重きを置いていないようにも見えます。
社会認識の形成過程をどう「譲り渡す」か?
アトウェルの授業のキーワードの1つ、「譲り渡す」こと。
子どもたちが、あんなふうになりたい、あの人から学びたいと思えるような人として自分をさらけ出す。これはライティング・ワークショップにおける譲り渡しの究極の形ともいえます。(中略) 教室で私が書き手として尊敬されているとしたら、それは、自分の作品を授業で使い続けているおかげでしょう。(太字は筆者)
とあるのだけど、社会科で考えると、これはどうしたらよいだろう。
社会科のひとつの目標に、「社会認識の育成」がある。社会がどのようであるか、客観的に見ることなくして社会科学にはなり得ない、という原点から、社会の姿を色眼鏡を外して眺めて見ることで社会認識は作られる。
が、社会科でそれを「譲り渡す」となると教員として頭を抱えてしまう。
例えばアトウェルのように、自分の作品を使うというのは文学だからできることであり、文学だからこそすべきことかもしれない。
が、社会科においてそれをやるときは、必ず対置するような論考を交えて、複数の中で見せないといけない、のかなと感じる。
そうすることで、「主観の中から共通する客観」を見つけることができるとすれば、効果的かもしれない。
具体的に言えば、ニュースに対する論考を提示する時を考えてもらえれば分かりやすいだろう。立場によって見え方が違うニュースに対し、複数の立場からの意見等を読むことで、共通する客観的な部分を浮かび上がらせる。
ともかく、たとえ私が優れた書き手だったとしても、その論考を提示することは“健全な”社会認識の育成になるだろうか?
この問いを常に持っていないと社会科は成り立たないだろうなあ。
〇〇の法則、アレに似てる?
第4章では、アトウェルが生徒に伝えている、読むときにも書くときにも使える「法則」がいくつか提示されていきます。
この法則のネーミングセンスが秀逸で、学齢が多少低くても、良い文章をつくるためのコツを意識しやすくなり、読み手・書き手として成長できる。実際に、生徒
その法則1つ1つはぜひ本書をご覧いただくとして、これを読んで思い出したのは、パターンランゲージだ。
で、そういう探究学習を実践してきた先生が色々なところから集まって、慶応の井庭先生が監修したパターンランゲージのカードとか使ってパネルディスカッションみたいなことしてる研修があったら最高。
— やっちゃえ先生@読書・研究会の夏 (@Yacchaee) 2018年2月14日
ちなこれ、教員なら無料でベネッセからもらえます。https://t.co/m5W3N73yZo pic.twitter.com/C2H8SwhPP4
自分なりにパターンランゲージを言語化すると、
よいものをつくるために、よいものを作ってきた人たちが辿った具体的なプロセスを抽象化して言葉に落とし込んだもの。それにより汎用性が高まり、状況が変わってもその言葉から、よりよいものをつくるためのヒントが湧き出る、というツール。
アトウェルのミニレッスンで伝えられることは、どの生徒にも役に立つものであり、同時に生徒がその法則を使いこなすことを求めています。そのレベルにまで落とし込まれた「〇〇の法則」を作り上げるのは一筋縄ではいかない。
彼女自身の書き手・読み手としての経験と、教え手としての経験が重なり合うもので、経験の重みを感じさせます。実際、このブログを書くときにも役立つ法則だと私自身も感じています(笑)
書けない生徒がいてもよい?
「書けない生徒に教師はどう対応したら良いのか?」
アトウェルがよく受けるこの質問に対して、彼女は生徒が書けるように個別に働きかける対応をとります。その対応自体は、教師としては皆がとろうとするもの。
でも、その対応を支える考え方がアトウェルの読み書きに対する認識を端的に示していました。
「書けない生徒もいるし、いてもよい」と考えてはいけません。書けなくてもよいと考えることは、書くとは創造的な芸術だという間違った幻想に基づいているからです。そうではなくて、書くとは、誰もができる、職人のように積み上げる技なのです。(太字は筆者)
だからこそ、徹底してアトウェルは個々に働きかけます。全体に向けてルールを説明したり、アドバイスを言って終わりにしない。
日本の学校現場では、いわゆる一斉授業をしている中で生徒ひとりに関わると、学齢によっては「あいつ、なんか目つけられてるよ」と気にする生徒がいたり、周りの目が気になって個別カンファレンスどころではない生徒がいます。
だから、「あの子、ああした方がいいのに、」と思ったとき、全体にふわっと声かけして終わることって教員あるあるだと思うのだけど、それじゃダメだと痛切に思わされる。
そうした個々への絶えざるまなざしを実現するアトウェルの授業の魅力を存分に感じられました。
おわりに
これまでの記事をご覧いただいた訳者の先生のブログで私の疑問に対して、大変ご丁寧に応答をいただきました…ただでさえ学べる幅が広い1冊なのに「学びの個別化」に対応していただいてありがたいです…アトウェルの生徒もこういう気持ちなのかな…
いろいろなご専門の先生方と1冊を読むって本当に面白いです。
国語科の枠でしか考えていない自分からすると色々と新鮮。他の話題との繋げ方が全然違うので、とても面白い! https://t.co/hnEcstpHwu
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年7月28日
【次回予告】
第5章では、アトウェルが歴史も教えている、ことに驚きました、社会科に少し近い視点から書かれていたので、また記事にしたいと思います。