生徒の相談を受ける。
— やっちゃえ先生@大企業やめた (@Yacchaee) 2019年1月8日
話しすぎた、と思うことはあっても、聴きすぎた、と思うことはない。
聴けてないな。割と自由な発想が好きなのもあって、考え出しちゃう。岩瀬先生がおっしゃっていたように目の前の生徒を置き去りにして考え出してしまう。いいアドバイスしたいと思っちゃう。聴こう。聴こう。
今日の最大のハイライト。聴けていないと反省する。
自分が「進路指導」の経験が少ない状態でできることといえば、話をとことん聞いて、聞きすぎるぐらいまで聞くことだと思う。
聴きすぎることはない
私の場合、話しすぎたことはあっても、聴きすぎたと反省することはない。そういう人間だということを胸に刻まないと教員としては致命的。
以前の岩瀬先生の記事から。自分にもバッチリ当てはまる。
相手の話したことを思考のエサにしないで、 判断の材料にしないで、 思考をスローダウンして、そのまま「きく」。 相手のことばについてゆくききかた。相手を追い越さない。相手の案内で旅に出る。 意識しているんだけど、なかなかできるようにならない。
岩瀬先生の記事は教員として学びが多いので、まだの方はぜひ読者登録をどうぞ。
当ブログでも決して一つ一つの記事に反応しようと思っているわけでは無いのだけれども、読んでいると「ああ〜〜これだ」と言うことが重なって、先達の振り返りを読む事がどれだけ教員にとっての肥やしになるかを感じています。
馬を水辺に連れて行くことはできるが
いろいろな苦労を抱えた生徒の話を聞いていると、その根底に「親の過干渉」があることがなんと多いことかと感じています。
私が直面する生徒問題?の多くは「保護者の過干渉」への苦しみ、に端を発することが多い。
— やっちゃえ先生@大企業やめた (@Yacchaee) 2019年1月4日
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」という「課題の分離」の発想は教育に不可欠。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か」考えて…(懇願)
問題を単純化しようとは毛頭思わないけれども、ここに至ることは本当に多い。
馬の引用はベストセラーのこの本で強調されていたこと。
ロジャーズのことば
心理学で知らない人はいないであろうロジャーズをきちんと勉強していないツケが出ている。
クライエントがカウンセリングから得るものは、必ずしも問題に対する整然とした解決策ではなく、問題に対して建設的な方法で立ち向かう能力なのである。『カウンセリングと心理療法』岩崎学術出版社
「問題に対して建設的な方法で立ち向かう能力」は当事者にある。だから、絶えず励ます。
「力になりたい」という姿勢を原点において、それを腹の底で確認しながら保護者とも話をしていきたい。
悩ましさを抱いて
パターナリスティックな自分に悩ましさを覚えつつも、
自分の可能性を今閉ざすことはできる限りして欲しくない。
1度の人生なのだから、自分の納得いくまで挑戦してほしい。
この思いはどうしても私から消えない。
「私はこういう経験をしてきた人生だったから、こういうことに価値があると感じちゃっている人間だ、と思って聞いて欲しいんだけど」と話すようにしてはいても、
「そんなことより聞いてくれよ」って思われていないだろうか。
おわりにひとりごと
学生時代、カウンセリング・アドバイジングについては実践も大学の関連組織で積ませてもらったことがあっても、全然ダメダメのままである。ただ、そのときに学んだ「自分ならこうする、本人のことを考えて熱のある“暑苦しい”アドバイジングもあっていい。むしろ最近は欠けている」との専門家の言葉に甘えていないか。無駄に自分を支えていないか。