やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

BYODとスマホゲーム依存と協同学習の授業デザインに悩む

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今週1週間は通常授業に加えてグループでのミニプロジェクトの詰めに時間を費やした週でした。

そこでずーっと抱えていたモヤモヤのツイートが流れてしまわないようにまとめておきます(以下引用箇所は自分のツイート)

同じようなことで悩んでいる先生方もいらっしゃるはず…そして今は悩んでいない方も、将来的に直面せざるを得ない問題も内包している気がします。

BYODが可能な学校だからこそ

勤務校はBYODの授業展開も可能で、実践の幅が広がり深い学びのためにできることが多くてありがたいのだけど、よく分析してみると、それができていない生徒もいる。そのうち、一定数はスマホゲーム依存で学習のための利用には程遠い生徒もいる。その個人差は学齢が上がるほど広がるから対処が難しい。 

私の勤務校ではスマホなどの機器の持ち込み・利用に制限がありません。

その恩恵を受けて、Google Classroomでの大福帳含め授業中もほぼ毎回生徒自身の端末からアクセスしてもらうような授業を行なっています。 

www.yacchaesensei.com

このようなスマホの学習利用ができる一方で、一部の生徒のスマホゲーム依存は深刻だと思います。

学齢が上がるほど、自律的にスマホを使うことが前提とされるので、いちいちスマホの利用を生徒全体に指導する機会がありません。

だからこそ、高校生のスマホ依存は結構根が深いのです。

スマホ依存といっても 

でも彼らをよくみると、決して一人で何かしているわけではなく、友達とのオンライン対戦がほとんど。これ、友達と家でテレビゲームやってるのと変わらない。つまり端末が持ち運べるようになっただけ。"つながり”を土台にした楽しさを友人と共有していることは今に特有の話ではない。 

一人でSNSに興じている生徒が多い、というわけではありません。

互いのスマホをテーブルに置いたり、肩寄せ合ったりしてゲームをしているのです。

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上の画像のように、本当に真剣に、楽しそうに友達とオンライン対戦で遊んでいる勤務校の生徒の様子が思い出されます。

それ自体は、"友人と遊ぶ”という点で今に限った楽しさではないはずです。

でも、それがどうも学校で目についてしまうのはなぜだろうと考えました。

スマホの利用、男女差がある?

スマホゲーム依存は男子に多くて、女子はインスタへの依存かな。インスタとゲームが決定的に違うのは、インスタは「見られたい」人がやるので、学校でやってても周りの出来事とか敏感だから「没入感」が低い。一方でゲームは逆。周りに鈍感で没入しているから、周りに「おいおい」と思わせることが多いんだなと思う。

言い換えれば、インスタは途中でやめたり「あとで」がしやすい。一方でゲームはそうはいかない。プレイ中のゲームは止められず、その刹那性が没入感を増強する。周りの目に鈍感になり「あいつらヤバくない…?」という周りからの諦めの眼差しにすら気づいていない。そこが最ももどかしい。

生徒たちを見ていて、学校空間で周りに勉強したり読書している生徒もいる中「すごい姿勢で、すごい集中度でゲームをしている」のが目立つのです。

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今週私がどうしても見過ごせなかったのは、放課後にグループで打ち合わせをしている最中にもそのような光景が見られたこと。

グループのメンバーが周りで話し合っているのに、スマホゲームに興じる。しかも、周りの生徒はそのことに対して「諦めてしまっている」のです。

グループでの学びはタックマンモデルの流れのように紆余曲折あります。

www.kikakulabo.com

でも、皆で集まっている時間のスマホゲームを誰も注意してくれないのは、その生徒たちが諦められているから。これはとても悔しく、悲しいことだと思うのです。

多感であることの意味

多感、であるはずの彼らが、多感でなくなっていること。これって大きな損失だと思う。いざやるべき時が来た時に、自分の感性に敏感でなかった生徒は(誤解を恐れずに言えば)「一直線に頑張る」こと以外の選択肢がない。言葉にしにくいけど、多感な時期の揺らぎの意味を生徒を見ていて物凄く感じた週。 

多感であるはずの時期に、多感な自分に敏感でないのはもったいない。

多感な自分のゆらぎを自覚できるからこそ、様々な局面におけるレジリエンスにも繋がると思います。

achievement-hrs.co.jp

ただこれをインセンティブにしてスマホゲーム依存脱却を生徒に迫るのは非常に難しい、というか無理。だから言葉を探すのだけれど…

声かけ一つに悩む

チームで集まってもスマホゲームをし続けてしまうあなたに周りが何も言わないのは優しさなんかではない。諦められている、ということがとても悲しい。「あいつはそういうやつだから笑」は優しさではなく諦め。諦められる人間になってほしくない。どういう言葉かけが正解だったかずっと悩んでる。  

でもこの記事を書いている今も、あのときのスマホゲームに興じていた生徒たちへの自分の声かけがどうだったか、悩んでいます。

結局声をかけたところでスマホゲーム依存が治るわけではない、自分で痛みを感じなければ、自分で自分にスイッチをいれなければ治らないものだとはわかっています。

が、それを放っておいて生徒に「鬱陶しがられない」ことを取りに行ったら教員としては△ではないかと思うのです。

協同学習とスマホゲーム

やっぱり一人の責任感をUPさせるために(フリーライダー問題)、グループの人数を減らして責任を明確にする形態ももちろん考えています。

が、、、というのがこのツイート。

でも一方で、グループの人数を減らして1人の責任を大きくした結果、「スマホゲーム>学業」の生徒と、「学業にフルコミット」の生徒が同じグループになり、後者のいらだちが危険水域に達して爆発するとか、人間関係が断絶するよりは、前者の生徒がいても形になるくらいの人数編成が現実的な気もする。

実際、どんな形にしてもある程度の人数がいればフリーライダー的な生徒が出てくることを排除しきれない。

そんな中いたずらに人数を減らすといわゆる「一生懸命」な生徒に大きなしわ寄せがくる。こちらから見ると、頑張ってくれている生徒が不必要に苦しむことになる。

そう考えると、人数を減らせばいい、というのも悩ましいのです。

おわりに

自分で自分を評価すること。

自分でやるべきことを掴み取って自律的に学ぶこと。

そんな生徒を育てたいけれど、なかなか一人でできることの少なさを感じる。

説教は一時の我慢で過ぎ去ってしまう。

誤解を恐れずにいえば、授業のデザインや組織の仕組みで知らないうちにいい状態に生徒をもっていきたい。

けれど、人を思う方向に導くのはおこがましく、難しく、何より悩ましいです。

過去記事のこの「お悩み」シリーズに本記事もノミネートかな。。。

www.yacchaesensei.com

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